集会祈願
全能の神よ、あなたは年ごとに、使徒フィリピポとヤコブを記念する喜びをお与えになります。使徒の取り次ぎを求めるわたしたちが、キリストの死と復活にあずかり、永遠の喜びのうちにあなたを仰ぎ見ることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (一コリント15.1-8)
1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
🌸 答唱詩編 詩編19 典147 ①②
答:天は神の栄光を語り、
大空はみ手のわざを告げる。
天は神の栄光を語り、
大空はみ手のわざを告げる。
日は日にことばを語り継ぎ、
夜は夜に知識を伝える。 【答】
ことばでもなく、話でもなく
その声も聞こえないが、
その響きは地をおおい、その知らせは世界に及ぶ。
神は天に太陽の幕屋をすえられた。 【答】
アレルヤ唱 典277
アレルヤ、アレルヤ。わたしは道、真理、いのち。フィリポよ、わたしを見るものは父を見る。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ14.6-14)
ヨハネによる福音
6〔そのとき、イエスはトマスに〕言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
奉納祈願
父である神よ、使徒フィリポとヤコブを祝う教会の供えものを受け入れてください。使徒の教えに従い、わたしたちが、清く、汚れのないささげものとなることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
聖なる父よ、秘跡の力によって、わたしたちの心の目を清めて下さい。使徒たちにならい、御子イエスのうちにあなたを見ることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
12使徒の中で福音書によく登場する二人の聖人の祝日。使徒のリストには二人のヤコブが現れるが、このヤコブはゼベダイの子、ヨハネの兄弟と違う、もう一人のヤコブで、アルファイの子とも記され、通称、「小ヤコブ」とも言われる。大ヤコブの殉教の後、エルサレムの教会で大きな役割を担い、使徒会議で教会が異邦人に開かれたものとなる重要な方針を決定したとされる。
詳しくは、ベネディクト16世教皇が記された『使徒―教会の起源』をお読みになるとよい。フィリポについても素晴らしい言葉がある。そこで、ヨハネ14章から取られた今日の福音の言葉「わたしを見た者は、父を見たのだ」について、こう記しておられる。「神は人間の顔をーすなわち、イエスの顔を取りました。したがって、今後、神のみ顔を知りたければ、わたしたちは、ただ、イエスの顔を仰ぎ見ればよいのです」と。
直接イエスの近くで生活した使徒たちと違い、わたしたちはイエスの顔を見ることができない。歴史の中で、イエスの顔は、時代によって、文化によって様々な描き方をされてきた。しかし、その流れを見ると、イエスを理想的な、荘厳で神的とも言うべき姿から、次第に、人間的な親しみと優しさに満ちたもの、人々の苦しみをわが身に負った僕としての姿が描かれるようになった、と言えるだろう。
わたしたちも、自分の人生の中で、様々な出会い、経験を通して、自分なりのイエス像を描き、磨き上げてゆくことによって、神のみ顔を、少しずつ、見ることができるようになるのではないか。(S.T.)