集会祈願
全能永遠の神よ、あなたを父と呼ぶ私たちが、いつも神の子どもとして歩み、約束された国に入ることができますように。聖霊による一致のうちに、あなたと共に神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (使徒言行録4.23-31)
23〔その日、ペトロとヨハネは、〕釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。 24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。 25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、
諸国の民はむなしいことを企てるのか。
26地上の王たちはこぞって立ち上がり、
指導者たちは団結して、
主とそのメシアに逆らう。』
27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
🌸 答唱詩編 詩編2 典31①②
答:神は王を立てたもう、
聖なるシオンの山のえに
なぜ異邦の民は騒ぎ、
むなしく叫ぶのか。
王たちは立ち上がる、
神とキリストに逆らい。
彼らの企てはむなしく、
神は彼らを裁かれる。
神の裁きを悟り、
彼らは恐れおののく。
アレルヤ唱 典265 ⑥
アレルヤ、アレルヤ。キリストともに復活したなら上のことを求めよう。キリストは神の右に座しておられる。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ3.1-8)
ヨハネによる福音
1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日の福音書では、ニコデモと主イエスの出会いが語られています。この箇所のなかに私は豊かな意味を感じますが、そのなかで二つのことを分かち合いたいと思います。
一つ目は出会いの時間です。ニコデモは主イエスのことを聞いて、主イエスに会いたがっていました。そして、彼はようやく主イエスのところに来ました。主イエスと出会った時間は夜でした。なぜ夜なのでしょうか?それは、ニコデモが他のファリサイ派の人々に見られるのを恐れていたからだと考えられます。でもこの理由よりも、次の理由の方が大切ではないかと思います。昼は主イエスもニコデモ自身も忙しくて、いろいろな仕事をしているのでしょう。しかし、夜には仕事がないので、主イエスにもっとも出会いやすい時だったのではないでしょうか。この出会いはとてもプライベートで静かな時間なので、個人的な話をしやすい時間であったなのだと思います。このような時にこそ、二人は互いによく分かち合って、よく理解することができたのです。
二つ目は出会いの態度です。主イエスのところに来たとき、ニコデモは主イエスに対する先入観を持っておらず、主イエスをただ信じるという態度を持っていました。「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。この態度はとても謙虚です。このニコデモの態度を観想しながら、神に対するモーセの態度を思い出しました。モーセは聖なる土、聖なる神の前で靴を脱いで、神のみ言葉をよく聞いて従いました。これは自分自身を低くする態度です。私たちは神に会うとき、他の人に会うとき、どのような態度を持っているでしょうか。
このようなことを今日の福音の箇所は考えさせてくれます。復活された主イエスと本当に出会ったら、新たに生まれるという希望が与えられるでしょう。水と聖霊によって、沈黙の中で主イエスと対話することができるし、また主イエスから謙遜と柔和を学ぶことができるでしょう。
分かち合いに、ニコデモについてモーセを思い出したとあり、自分もそうだと思った。
謙遜と勇気。
議員やファリサイ派の中にあっても「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」とはっきり言ったニコデモ(ヨハネ福音書7章51節)。
本人から事情を聞くこと。
このことすら守られてない現実に唖然とする。
神の裁き即ち救いを静かに待ち望む。
思わず、神の裁きと書いたが、
どんな峻厳な裁きでも、それが真に神の裁きならば、甘んじで受ける、とヴォルテールは言っていたと思う(伊藤正己『法の支配』)。
峻厳な裁きと言うか、まあ、僕はしないが、何人かの知人が滝に打たれに好んで行く。
貧乏くさいのは嫌いだが、貧乏と言う試練は甘んじで受ける(山田詠美『僕は勉強ができない』新潮文庫)って感じかな。
パウロの回心、あれほど大きな神の恵みはないだろう。そう考えるとわかる気がする、
雷や滝のように、神の恵みに打たれることが。
ヴォルテールについてはちょっと不正確でした。
「いくたびか自由の剥奪をうけ、(17世紀に絶対王政を打破した)イギリスに逃れたヴォルテールが、イギリスに着いて、『専制主義の国から、法そのものは苛酷なものであるにしても、人々が気まぐれではなくて、法によって支配される国に来た』」と(伊藤正己『法の支配』5頁)。
ロシア、中国、北朝鮮は人の支配の国だが、日本も法律家や医療関係者や行政の裁量が大きく(法の支配とは「自由裁量さえも、もつことを排除」と前掲書5頁)、専門家や行政の専制となっている。
力による一方的な現状変更が国内において横行している日本。国内の専門家や行政やその背後の一般民衆による人権侵害(J.Sミルの言う社会的権力)を解決しないと説得力がない。
今日、4月21日はカンタベリーの聖アンセルムス(1033年生)の日だ。彼も、当時の国王(主権者)との関係が本当に大変だった。