Generic filters
Exact matches only
Filter by content type
Comments
Attachments

教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

復活節第三主日C年(2022/5/1)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

「今とった魚を何匹か持って来なさい」

ヨハネ21:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (使徒言行録5:27b-32、40b-41)

 〔その日、大祭司は使徒たちに〕尋問した。 28「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」 29ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。 30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。 31神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。 32わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」

 〔議員たちは、〕イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 41それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行〔った。〕

🌸 答唱詩編 詩編30 典65①③④

🌸 第二朗読 (黙示録5:11-14)

 わたし〔ヨハネ〕見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。 12天使たちは大声でこう言った。
 「屠られた小羊は、
 力、富、知恵、威力、
 誉れ、栄光、そして賛美を
 受けるにふさわしい方です。」
 13また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
 「玉座に座っておられる方と小羊とに、
 賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
 世々限りなくありますように。」
 14四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ21:1-19)

 1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。》

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 先週の福音では、復活されたイエスが弟子たちと、さらにはその場にいなかったトマスに姿を現されたことが読まれました。今日は、ヨハネが三番目の出現と書く、ガリラヤでの出現の記事が読まれました。

 ガリラヤは、かつてイエスが活動の舞台に選ばれた場所、弟子の多くがイエスの呼びかけに応えて、すべてを置いて従った故郷です。イエスは生涯の最後の日々をエルサレムで過ごし、そこで十字架につけられて亡くなられ、墓に葬られました。エルサレムは、イスラエルの人なら、だれもが憧れる聖なる都です。しかも、弟子たちが復活のイエスにはじめて出会った場所です。

 しかし、復活されたイエスがガリラヤで弟子たちに会われたことを、どの福音書も例外なく記しています。直接それに触れないルカにおいても、空になった墓を訪れる婦人たちに、「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」と復活を告げる使者が言います。ガリラヤは、ただ、懐かしい思い出の場所であるだけでなく、弟子たちが、そして、イエスを信じて生きる人々、わたしたちが日々の生活を送る、生活の場、日常性を表わす言葉です。そこは、弟子たちが漁をし、労働の成果をわかちあうだけでなく、天候や予測できない状況に悩まされ、人間同士のいさかいの絶えない場でもあります。

 イエスは、まさに、そのような場所で人々に会うこと、その苦しみに直面する人々に寄り添うことを望んでおられるのです。案の定、弟子たちは舟を出しますが、「その夜は何もとれなかった」とヨハネは記します。疲労困憊、むなしさ、無力の体験、それこそが、イエスとの出会いの条件です。人間が手をつくし、万策尽きたとき、神は、手を差し伸べられるのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。岸辺に立つ男が何気なく投げかけた言葉に、弟子たちは素直に従い、網を降ろします。それがイエスだとはだれも気がつきません。そして、大漁。「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」とあります。それは、人間の努力ではなく、神の無償の恵みです。思いがけず与えられる、人間の想像をはるかに超える、あふれるほどの賜物です。あのわずかのパンで5000人もの人の空腹を満たされた時のように、あまったパンを数えると12のかごがいっぱいになったように、網にかかった大きな魚は153匹にもなったとあります。

 はじめに、それが「主だ」とわかったのは、あのイエスの愛しておられた弟子でした。使徒の頭ペトロは、その弟子の言葉に従って、「上着をまとって湖に飛び込んだ」とあります。日常性の中に働く復活の主の力を感じるためには、特別な恵みが必要なのでしょうか。祈りの賜物でしょうか。教会は、いつの時代も、組織の長ではなく、時代の歩みの中に神の働きを見出す霊的な師、時のしるし、聖霊の導きを察知する目をもつ人々によって導かれてきたことを忘れてはなりません。

 陸に上がると、すでに朝の食事が準備されています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」。それは、空腹を癒す朝食ではなく、弟子たちに、そして、教会に残されたイエスの遺産、世の終わりまで旅を続ける神の民を養う聖なる糧のしるしではないでしょうか。ミサの中で司祭が唱える言葉のもととなったパウロの言葉、「このパンを食べ、杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」、「主の晩餐」の先駆けだったのではないでしょうか。

 主の復活を記念することは、十字架を否定することではありません。十字架の死がなかったことにすることでもありません。これからも、それが無くなることを約束するものではありません。今も、そして、これからも、一人一人の人生の中で、教会の中で、人類の歩みの中で、十字架が再現されることは否定できません。同時に、それが、復活へとつながる道であることも、教会は信じています。コロナの災禍も、ウクライナの悲劇も、主の十字架と無縁ではありません。それは、主が、今も、人々と共に苦しみ、血を流しておられることを意味します。しかし、それが、主の苦しみであるならば、それが、いつの日か、復活へと導くものであることを信じ、希望することができないでしょうか。

 復活節を過ごすとき、主がかつて弟子たちに姿を現されたことを思い出すだけでなく、今も、わたしたちのありのままの現実の中に、ともに生き、喜びも悲しみも共にしてくださることをより深く実感し、日々の苦しみを乗り越える力をいただくことができるよう祈りましょう。(S.T.)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

コメントする