集会祈願
🌸 第一朗読 (使徒言行録4.1-12)
1〔その日、〕ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。 2二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。
5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 11この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。 12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
🌸 答唱詩編 詩編118 典87①③
アレルヤ唱 典266(八日間)
🌸 福音朗読 (ヨハネ21.1-14)
ヨハネによる福音
1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
復活祭からの一週間、平日のミサでは、復活の主が様々な形でご自分の姿を現された様子が読まれた。イエスが葬られた墓地で、そこから戻る道で、エマオへ向かう道で、そして、ガリラヤ湖の岸辺で。そこで共通することは、それがイエスだとわからないということ。たとえ、わかっても、にわかには信じられないということ。
今日の福音では、エルサレムで恐れのあまり身を隠していた弟子たちにイエスが姿を現し、復活を信じた弟子たちが、ガリラヤではイエスだとはわからない。「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」とヨハネは記す。一晩中働いても獲物が得られなかった弟子たちが、イエスの指示に従って網をおろすと、引き上げることができないほどの大漁に恵まれる。そのときはじめて弟子たちはそれがイエスだとわかる。
わたしたちが復活の主にお会いすいるのも、それと同じ。それがどこか、どのようにしてか、だれも知らない。道の途中か、仕事が行き詰まったときか、皆が集まっているときか。イエスは、予想もしないときに、意外な方法で、近づいて来られる。自分の都合で信じるのではなく、主が望まれるときに、主がよしとされる方法で、信じさせていただく。
確かな時は、共に食事をするとき、主の御体をいただくとき。そこに主はいつもいて迎えてくださる。(S.T.)
キリストって人間の世に遣わされた神のGメンの親分だと思う。
かつては、検察官が囚人を装い刑務所の人権情況をおのれの身をもって知ったものである(安田好弘『生きるという権利』)。
外国人と間違えてユースホステルの食堂で日本人女性に声をかけたことはあるが、外国人に間違えられたことはない。
今度は入管施設に入ろうと思うが無理だろう。
とはいえ、ダライ・ラマを引き合いに出すまでもなく神のGメンはたやすく悪魔のGメンに転落する。
『田舎司祭の日記』についての解説で渡辺一夫は、神に近づけば近づくほど悪霊からの誘惑が激しくなる、と言っていた。
ある女警と、人生は死ぬまで戦いだ、と話した。
悪の結末は破滅であり、神の結末は救いである(そういえば、日本近代文学史の中で、愛は、与えるものか、奪うものか?との論争があった。
この論争に参戦しなかった神学者の戦争責任を僕は問う!)。
とはいえ人間はこの中間にありいつでも引き返すことができる。
否?!
救済!
既に救われているのだ。
キリスト者というと狭義のキリスト教の人間だと思われがちだが、人間の救いを伝えるのが真の宗教者・最広義のキリスト者だろう。
これで救われます、というのは詐欺で(そういえばある真の左翼弁護士は「信じる者はだまされる!」と年中言っていた)、
人間である以上、既に救われているのだ。
これからも救済を伝えたい。
宮沢俊義は、神々の共存と言った。
神のGメンの親分同士が喧嘩してたら疑うべきだ。
神モドキが混じってる!と。
ガンモドキは喰えば良い。
神モドキは?
どうする?
これぞ個人の尊厳。
カラクテール?!
人それぞれ!
これからのお楽しみ!
サミットがはじまる。
我々も下からのサミットを!
追伸
ダライ・ラマの相手をさせられた少年よ!
恐れるな。
僕の初キスも強制だ(まあ、同級生だけど。君ほど筋金入ってなくてごめん!)。
正当根拠なき強制は悪だ!
アーメン!
全く油断も隙もあったもんじゃない!
女と子どもは自殺禁止!
って公言し、87歳のダライ・ラマの悪口!?言ったら早速、青森六戸町犬落瀬で92歳の爺さんが放火した模様。
とにかく、おおらかに喰う寝る銭湯ぐらい万民に保障しないと、この国どころか地球も宇宙も地獄になっちゃう。
核兵器なき世界へ向かうには人間への信頼を回復するしかない。
やたら熱い銭湯の湯船で知り合った明治か大正生まれの床屋の爺さんが話してくれた昔話の中味はすっかり忘れたが、1994年の本郷界隈が懐かしい。
ノアの箱船とは、湯船のことではなく、この地球のことだと思う。
分かち合いの結語にあるように、ともに食事をするって大事だと思う。
ただ、何か他意もなく、リラックスして純粋にコミュニケーションを味わうことが大切だと思う。
ミサは本当にありがたい原型だ。
あれこれ考えるより、ちょっとお茶を飲もうっと!