集会祈願
正義といつくしみに満ちておられる神よ、救いの訪れを信じ、解放の時を待ち望むわたしたちの心を目覚めさせてください。希望の光であるキリストを見つめ、歩み続けることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (エレミヤ33.14-16)
14見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 15その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 16その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
🌸 答唱詩編 詩編25 典137 ①②③
答 すべての人の救いを願い、
わたしはあなたを待ち望む。
神よ、あなたの道を示し、
その小道を教えてください。
あなたの真理のうちに
わたしを導きさとしてください。 【答】
神を憐れみ深く正義に満ち、
罪びとに道を示される。
神は貧しい人を正義に導き、
へりくだる人にその道を教えられる。 【答】
契約とさとしを守る人に、
神への小道は慈しみとまことに溢れる。
神を恐れる人に神は心を開き、
契約を示し、さとされる。 【答】
🌸 第二朗読 (一テサロニケ3.12~4.2)
12〔皆さん、〕どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。 13そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
1さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。 2わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
アレルヤ唱 典255(第一主日)
アレルヤ、アレルヤ。主よ、あなtのいつくしみを示し、救いをお与えください。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ21.25-28、34-36)
ルカによる福音
25〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。 26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。 35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
奉納祈願
恵み深い神よ、救いの訪れを待ち望みながら祈ります。ひとり子を与えてくださるあなたの愛を深く味わうことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
神よ、いのちの糧に満たされたわたしたちを遣わしてください。あなたが与えてくださる希望と喜びを、日々出会う人に伝えることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
今日から、待降節、そして、教会暦の新しい年が始まります。待降節というと、まずは、クリスマスを迎える準備の時と考えますが、今日の典礼に関する限り、あまり、クリスマスの雰囲気が感じられません。むしろ、世の終わりに現れる恐ろしい現象、そして、「目を覚ましていなさい」という厳しい言葉が朗読にはあふれていました。
待降節、という言葉には、主の来臨(Advent)を待つという意味が込められています。そして、主の来臨には、神の子が人となってこの世に誕生される、文字通りのクリスマス(降誕)を意味すると同時に、復活された主イエス・キリストが、世の終わりに再び来られる、再臨される、という意味も含まれています。教会暦が終わりに近づくにつれ、そうした終末に関する言葉が度々出てきたことを思い出されるでしょう。
今日、待降節第一の主日では、この後の意味の主の来臨がテーマになっています。自然界の、想像を絶する異常な現象が次々に生じること、人間にとって、普段、意識せずに最も頼りにしている大地そのものが揺らぐ地震に象徴されるように、この地球、さらには、宇宙を含めた世界が異常をきたすとすれば、それは、現在世界中を恐怖に陥れたコロナウィルスの災禍以上に人々を動揺させるに違いありません。
しかし、聖書には、そうした世の終わりの現象だけでなく、もっと近い将来起こりうる、人々を恐怖に陥れる出来事についても記しています。それは、イスラエルの人々にとって、まさに、信仰の中心であるエルサレムの都、そこにそびえたつ神殿が崩壊することでした。そして、その前に、イエスに従っていった人々を失望のどん底に陥れたのは、あの愛する師であるイエスが、無残にも、十字架上で亡くなられたことです。
聖書は、そうしたことを記すことで、ただ人々に恐怖心を起こさせるわけではありません。むしろ、そのような出来事を通して訪れる希望について、語ろうとしているのです。ちょうど、寒く辛い冬を通って、温かく明るい春が訪れるように、人間が経験する、様々な厳しい現実を通して、神の恵み、命、希望が与えられることを教えるのです。
第一朗読のエレミヤの預言では、「わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と預言者は語ります。エレミヤは、イスラエル王国が滅ぼされ、残されたユダ王国もバビロニアによって滅ぼされるという、悲惨な現実の中に生きた預言者です。彼は、訪れるはずのわざわいについてあからさまに王国貴族に訴え、回心をよびかけ、そのために様々な苦しみを味わった預言者です。そのエレミヤが、今や、神が与えようとなさる恵みの約束、救いの到来を、はばかることなく語ります。神の恵み、救いの光は、闇の中ではじめて訪れることを彼は確信していたのです。
わたしたちが生きる現実は、いつの時代も、そして、この21世紀の世界も、不完全で問題だらけ、人間の弱さや醜さが繰り返し露呈され、やりきれない思いにさせられることの連続と言っても大げさではありません。つい、投げやりになったり、やり場のない不満をうちに蓄え、何かのきっかけさえあれば爆発しかねない状況がどこにでもあるようにも思えます。
しかし、そのような、人間の力だけではどうにもならない、そんな状況だからこそ、神ご自身が人としてこの世にお生まれになり、そこで、人としての弱さ・無力さをとことん味わわれることによって、それを希望に変えるという、神の力、神の恵みをもたらし、人々に希望をもたらす光を注いでくださったことをわたしたちは信じているのです。
このクリスマスを迎えようとする待降節の間、聖パウロが勧めるように、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを学び」、さらにその歩みを続けることができるように、主の力強い導きを祈りましょう。(S.T.)