集会祈願
🌸 第一朗読 (出エジプト19.1-2、9-11、16-20b)
出エジプト記
1イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。 2彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
9主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
10主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、 11三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
16三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。 17しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。 18シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。 19角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
20主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられた。
🌸 答唱詩編 ダニエル補遺・アザルヤ29、30+32 典49①②
アレルヤ唱 典271⑫
🌸 福音朗読 (マタイ13.10-17)
マタイによる福音
〔その時、〕弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 14イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
15この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』
16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
有名な「種を蒔く人」のたとえに続く部分。イエスのメッセージの中心にある「神の国」について、イエスは旧約の預言者の例に従って、「たとえ」を用いて説明される。しかし、「たとえ」というものは、難しい事柄の理解を助けるものと思われがちだが、実は、理解を容易にするどころか、人の心を一層頑なにする面があることも忘れてはならない。
イエスが教えようとするのは、すべての人を無条件に納得させるようなものではなく、むしろ、人々がその前で、ありのままの自分で対峙し、態度決定を迫るような、「神の国」という、日常的理解を超えた神秘の世界である。それを受け止めるためには、知識や理屈のように、自分の力でつかみ取るのではなく、むしろ、へりくだって恵みとしていただく、謙虚な姿勢が求められる。それは、まさに、その人自身の自由で、主体的な決断という、一つの大きな「回心」を前提とするものである。
預言者の謎めいた言葉、「あなたがたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」という言葉は、神秘を前にしながら、それを認めることのできない、頑なで傲慢な人間、あくまで自己中心の姿勢を崩すことのできない人間について言われた言葉ではないか。
「天の国の秘密を悟ることが許されている」弟子が、幸いと言われるのは、そのような心が恵みとして与えられているからであろう。(S.T.)