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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第六金曜日(2/18)

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たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか

マルコ8:36
集会祈願

🌸 第一朗読 (ヤコブ2:14-24、26)

使徒ヤコブの手紙

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 19あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 20ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 21神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。 22アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。 23「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 24これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。26魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (マルコ8:34~9:1)

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスは〕群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 もし昨日の福音書の個所と今日読まれた箇所を一つにしようとするならば、三つの段落の主題はそれぞれに次のような問いの形で表すことができます。第一段落は、主イエスは誰かと問いかけられて、答えはメシアすなわちキリストです。次に、第二段落は、そうするとキリストは誰かと問いかけられます。それは死んで復活する者だと答えることができます。最後に、第三段落は、それでは、キリスト者は誰か、十字架を背負う者だという答えを示しています。皆さん、これらの問題に対して、簡単に答えることができると思いますが、実際にそれらの答えを本当に思っていますか。もしそう思うならば、それは私たちの本当の信仰でしょうか。もしそういうふうに信じるならば、その信仰において、私たちは日々生活の中で本当に生きていますか。このような問いは私の心の中で何回も繰り返されてきました。

 皆さんがご存じの通りだと思いますが、弟子たちを代表しているペトロは、主イエスの質問に対して、「あなたはキリストです」と的確に答えて告白しました。しかし、ペトロが考えていたキリストと、主イエスがキリストであるということの意味が全く違います。簡単に言うならペトロとその時代の多くの人びとは、主イエスが物質的な形に見える幸せを何かもたらしてくれる方であり、例えば病人を癒したり、パンを増やしたり、奇跡を行う方であり、現世(げんせ)御利益的(ごりやくてき)なキリストであると思ったわけです。でも、実際は全然違います。

 主イエスがキリストであるということは、もっと深い意味があります。それは十字架にのぼるキリストです。ペトロと弟子たちはそれがまだ理解できません。まだ理解できないうちに、ペトロは、主イエスがご自分の生き方を示したことを聞きますと、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。すなわち、ペトロは主イエスより上に立ち、キリストが死や苦しみに遭うはずがないと思ったのです。主イエスはそのペトロに厳しく注意して「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いましたわけです。さらに、主イエス・キリストのことが理解できない時に、他の人びとにそれを伝えてはいけません。主イエスはご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められたというその意味です。

 私たちは主イエス・キリストのことを正しく理解しますか、また主イエスをわきへお連れして、いさめますかということをこのごミサを通して改めて皆さんと一緒に黙想したいと思います。この理解ができるために、主イエスと同じように生きなければなりません。それは自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う者となるのです。

 キリスト者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う者である、自分の命を救うのではなくて、福音のために命を失うものこそ、それを得ることができるのです。これが私たち弟子の生き方だと言えます。ただし、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従う」ということばは義務ではないと思います。我慢とか、忍耐とか、運命だから仕方がないとか、そういうものとして招いているわけではありません。神の大きな愛と恵みをいただいた者として自分を捨てて本当に人々に奉仕でき、自分を捨てて愛に生きていけると思います。

 そのようなものは大体小さな道だったり、謙遜な道だったり、自分を捨てていくみすぼらしい道であるという可能性もあると思います。しかし、その主が導いてくださる道を忠実に歩めるように、必ず主イエスは横にいて励ましてくださる方です。この主イエスと日々の具体的な生活の中で主イエスの弟子として歩んでいける恵みを願いたいと思います。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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