集会祈願
🌸 第一朗読 (ハバクク1:2-3、2:2-4)
ハバククの預言
2主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
あなたは助けてくださらない。
3どうして、あなたはわたしに災いを見させ
労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり
争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
2主はわたしに答えて、言われた。
「幻を書き記せ。
走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
3定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない。
4見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
🌸 答唱詩編 詩編95 典35 ①③④
🌸 第二朗読 (二テモテ1:6-8、13-14)
使徒パウロのテモテへの手紙
6〔愛する者よ、〕わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
アレルヤ唱 典270 27C
🌸 福音朗読 (ルカ17:5-10)
ルカによる福音
5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日のみ言葉には、「信仰」という言葉が繰り返し出てきます。福音では、使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願い、第一朗読のハバククの預言では、「神に従う人は信仰によって生きる」とあり、第二朗読では、パウロは、愛するテモテに「信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と記しています。
洗礼によって、信仰をいただいてわたしたちは、皆、神を信じて生きるものとなりましたが、どこかで、自分の信仰が弱く、不十分で、中途半端だと感じています。「信じます」と言いながら、神の力よりも、自分の力を信頼して、生きていると感じることが少なくありません。「信仰」はわたしたちキリスト者の根本的な姿勢であり、「信仰」こそが、わたしたちを人々との違いを特徴づけるものであるはずですが、実際は、それほど確信をもって、「そうだ」と言えないのが現実ではないでしょうか。
ルカ福音書の中で、使徒たちはイエスに、「わたしたちの信仰を増してください」と願います。直前に出る話では、ゆるしのことがテーマになっています。日に七回でも、「悔い改めます」、と言ってくるなら、「ゆるしてやりなさい」、というのがイエスの教えです。そんなことができるか、という思いが、使徒たちの質問になったのかもしれません。それに対してイエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」、と言われます。「山を動かすほどの信仰」という言葉もあります。それは、信仰の大きさではなく、信仰があるかないか、信じるか信じないか、の問題だと言っておられるようにも受け取れます。つまり、信仰というものは、条件づきではなく、手放しで、無条件で、自分を全面的に神の力に委ねることだと、言っておられるようにも、受け取れます。
第一朗読の『ハバククの預言』は、紀元前7世紀、ユダ王国の末期に活躍した預言者の言葉とされていますが、今日、あえてこの個所が選ばれたのは、最後の言葉、「神に従う人は信仰によって生きる」のためではないでしょうか。この言葉は、新約聖書、特に、聖パウロの手紙に引用されたことで、有名になりました。パウロが、その深い神学的洞察を展開した『ローマの教会への手紙』の冒頭で、彼は言います、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は、信仰によって生きる』と書いているとおりです」(ローマ1.17)、と。その後の章やガラテヤの教会への手紙でも、繰り返し、この言葉「信仰」に触れていますが、それは、ユダヤ人が何よりも大切にしてきた「律法」の行いと対比して語っているのです。ユダヤ人は、律法を守り行うことによって、神を喜ばすことができる、神の義を得ることができる、神によって救われると信じてきました。しかし、パウロは、その大前提を否定し、人が救われるのは、律法の行いではなく、主イエス・キリスト、しかも、十字架で亡くなられたイエスを信じることによるのだと主張するのです。律法を知らず、律法を守ることのできないユダヤ人以外の人々、異邦人が救われるのは、まさに、主イエスへの信仰によることをパウロは力説するのです。プロテスタントの信仰を大きく発展させたルターの思想も、実は、この点に根拠を置いているのです。
キリスト者は、律法の行いではなく、もっぱら、主イエスへの信仰に生きるものと言われますが、はたして、律法に代わって、教会の中で行われる様々な善行、奉仕、献身、正しい生き方(祈り、秘跡、ミサへの参加、献金等)によって救われる、と思っていることはないでしょうか。「信じます」と言いながら、どこかで、自分を守り、自分の都合や条件に合わせて信じようとしていないでしょうか。リスクを取らず、安全第一で生きようとするなら、信仰の入る余地はありません。自分の行いではなく、罪深い自分を救おうとされる神への信仰によって救われることを確信し、自分の正しさを保証するものを手放し、無条件で、神の愛に自らを委ねる生き方ができますように、祈りましょう。それこそが、信仰者としてのわたしたちに求められていること、人々が暗にわたしたちに期待していることです。神ご自身がわたしたちに望んでおられることです。(S.T.)
毎日新聞本日朝刊広告に『周恩来十九歳の東京日記』がある。
「勉強か、革命か、祖国か、家族か、私か、友か・‥。」
神の国・神の御旨にすべてを捧げる信仰に生きる人間すべてに不可避の問いがここにある。
「十字架で亡くなられたイエスを信じること」
これは本当に大変なことだ。自分の力では無理だ。自分の力ではむしろ逆にイエスが十字架につけられたら逃げてしまいそうだ。頭で信じていると思っていても実際にイエスが逮捕され十字架につけられたら、しかもペトロ、ヨハネ、ヤコブのように、主イエスの変容を目の前で見たら、しかも我が主イエスがモーセやエリヤと話しているのを見たら、信仰というより、自力で信じ込む信念が強くなり、ペトロのように、と言ったらペトロに失礼だが、いざという時、逃げてしまいそうだ。他人事とは思えない。自力で信じ込む信念ほど危険なものはない。
主の変容の時もヨハネは黙っていた。ペトロは自分でも深くわかっていないのに、あれこれ言ってしまう。恵みの時の有頂天が危険なのに、英師も書いているのに、おっちょこちょいだ。感動し過ぎる。
ヨハネはじっと黙っている。聖母マリアと似ている。結局、十字架のイエスの下に聖母マリアや女性たちと立つことができる。
ネットで偶然、パパ様を見た。車椅子に乗っていた。介護施設でのおじいちゃんおばあちゃんと重なった。小さくされた者。この世にとって、この世に対し無防備。十字架のイエスと同じだ。
なぜペトロの後継者か、十字架のイエスから声をかけられたヨハネではなく。というか、なぜ我等の主、我等の神イエスはペトロを選ばれたのか。マタイの召命と同じような謎だ。
「自分の行いではなく、罪深い自分を救おうとされる神への信仰によって救われることを確信し、自分の正しさを保証するものを手放し、無条件で、神の愛に自らを委ねる生き方」ができるように祈り求めたい。
分かち合いにある通り私自身の信仰が中途半端。1日の内で信仰で生きている時は他者に寛容になれるが、自分の正しさにとらわれるとファリサイ派や律法学者のようになってしまう。
どこかで徹底的に集中して神学を学ぶ必要も感じるが、ともかく分かち合いで触れられた聖書箇所を紐解きながら、無条件で神の愛に委ねる生き方・信仰を祈り求めたい。