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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第三十二月曜日(11/13)

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もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、

ルカ17:6
集会祈願

🌸 第一朗読 (知恵1・1-7)

1国を治める者たちよ、義を愛せよ、
善良な心で主を思い、
素直な心で主を求めよ。
2主を試すことをしない人は主を見いだし、
不信を抱かない人に主は御自身を示される。
3よこしまな考えは人を神から遠ざけ、
主の力は、試そうとする愚か者の罪深さを暴く。
4知恵は悪を行う魂には入らず、
罪のとりこになっている体には住み着かない。
5人を教え導く聖なる霊は、偽りを避け、
愚かな考えからは遠ざかり、
不正に出会えばそれを嫌う。

6知恵は人間を慈しむ霊である。
しかし、神を汚す者を赦さない。
神は人の思いを知り、
心を正しく見抜き、
人の言葉をすべて聞いておられる。
7主の霊は全地に満ち、
すべてをつかさどり、
あらゆる言葉を知っておられる。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ルカ17・1-6)

ルカによる福音

 1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。 3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ルカによる福音書17章に進み、今日はマタイによる福音書の異なる文脈で見られるイエスの3つの言葉を紹介しよう。一つ目は、スキャンダルの必然性についてである。スキャンダルとは、文字通り、人をつまずかせ、転ばせるような行為や言葉のことである。ここでは、人々がキリストと福音を信じ受け入れることを妨げたり、難しくしたりする障害となる言葉や行動を指す。

 イエスは、こうしたことは避けられないが、責任を負う者にとっては悲劇的なことだと言う。人とキリストの呼びかけの間に入り、人がキリストとその道を知り、愛するようになるのを妨げる効果的な代理人になることは恐ろしいことです。スキャンダルを引き起こした者は、首に石臼をかけられ、海に投げ込まれた方がましなのだ。「小さな者たち」とは、若く無垢な者たち、あるいはクリスチャンとしての信仰がか弱い者たちを指す。

 悲しいことに、ここ数年、カトリックの指導者たち(司教、司祭、兄弟姉妹)の「スキャンダル」が数多く報道されている。これらの出来事によって、どれだけの人々の信仰が弱められたかを言うのは難しいが、あまり熱心でない人々の中には、幻滅感を覚え、教会を見捨てるに十分な出来事であったと思われる。

 厳密な意味でのスキャンダルではなく、単に人間の弱さによる失敗であった場合もあるだろう。それ以外のケース、特に若者や罪のない人々が虐待されたり、道を踏み外したりしたケースでは、真のスキャンダルと長引く被害が確かに存在した。

 福音の意味でのスキャンダルと世間一般の意味でのスキャンダルは、まったく同じではないの だから、私たちはその区別に注意しなければならない。イエス自身、ある儀式を守らなかったために、一部の宗教指導者たちの間で「スキャンダル」を引き起こした。これは「ファリサイ的」スキャンダル、あるいは偽善的スキャンダルとして知られている。私たちカトリック信者は、確かにこの種の偽りのスキャンダルを犯す可能性があり、確かにメディアはセンセーショナリズムを目的として、ある些細な事柄を特に不愉快な「聖人ぶった」的アプローチで吹聴することがある。

 しかし、スキャンダルを引き起こすのは公の場にいる人間だけではない。親は、両義的で2つの基準を持つ行動によって、子供にある行動をとるよう指示する一方で、自分自身はまったく別の行動をとることがある。カトリック信者の親や(教師など)子どもの指導に当たる者は、子どもの信仰を妨げる存在にならないよう、特に注意する必要がある。

 二つ目の格言は、赦しと和解に関するもので、上記のスキャンダルの問題と無関係ではない。兄弟姉妹、つまり同じクリスチャンが明らかに間違っているなら、その人を正すべきである。そして、過ちを犯した者が明らかに悔い改めるなら、赦しが与えられるべきである。たとえ何度同じ罪を犯しても、そのたびに心から悲しみを表明すれば、その人は赦されるべきなのである。

 これは、人が悪いことをし続け、謝るだけで赦しを期待できると言っているのではない。何らかのコントロールが必要かもしれない。特に、アルコール、薬物、セックスに溺れたり、他の強迫行為の犠牲になっている人のように、その人が自分自身をコントロールできない場合はそうである。しかし、このような場合であっても、罰だけでは満足のいく解決策とはなりえず、癒しとリハビリのためにあらゆる努力を払わなければならない。

 キリスト者として、私たちが行うべきことは和解であり、裁きや非難ではない。失われた羊、失われたコイン、失われた息子(ルカによる福音書15章参照)のたとえ話にある、罪人に対する神の愛についての教えを思い出す必要がある。

 三つ目の諺は、信仰、つまり神への深い信頼についてである。使徒たちはイエスに、彼らの信仰を高めてくれるよう願った。これは、スキャンダルについての警告や、無期限に赦すという要求の文脈から見ることができる。イエスは彼らに言われた:

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

 私たちが強い信頼を必要とするのは、スキャンダルを与えた側と受けた側の双方を更生させようとするときかもしれない。また、自分や他人を傷つけた人を何度も何度も心から赦すことができるようになるには、確かに信仰が必要だ。しかし、真の赦しとは、単純に悪事を帳消しにすることではない。むしろ、調和と平和、相互の愛と尊敬の現状を回復するために必要な措置を講じることなのだ。そして、それには長い時間がかかることもある。

Living Spaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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