集会祈願
🌸 第一朗読 (黙示録11:4-12)
ヨハネの黙示
4〔わたしヨハネはこう告げられた。二人の証人を見よ。〕地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。 5この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。 6彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。 7二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。 8彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。 9さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。 10地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。 11三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。 12二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。
🌸 答唱詩編 詩編18 典64 ①②
アレルヤ唱 典269 ㉙
🌸 福音朗読 (ルカ20:27-40)
27〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
神殿に入られたイエスがユダヤ人との間でされた論争は、いくつもあるが、今週はその一つだけが選ばれている。待降節を前にした時期として、スペースの問題から絞られたのかもしれない。
今日の論争のテーマは復活。サドカイ派の人々は復活ない、と主張していた。彼らの信仰の土台は、モーセ5書(律法)に限られ、後の時代に編まれた文書:預言者、知恵文学等は同等の権威をもたない、とされた。旧約で復活に言及するのは、イザヤ、ダニエル預言書、さらには、続編に属するマカバイ記等。しかし、イエスが約束される復活には遠く及ばない。
サドカイ派の人々が持ち出す理屈は、人が死んで子を残さなかった場合、その妻は、子孫を残す(家名を残す)ために、その弟と結婚すべし、という律法(申命記25レヴィラート婚)の規定。こうした掟は、聖書以外にも残されている。
しかし、イエスは言う、「復活するのにふさわしいとされた人々は、娶ることも嫁ぐこともない」と。死ぬことがなければ、子孫を残す必要もない。イエスが約束される復活のいのちは、まさに、神のいのちであり、わたしたちいのちの理解を遥かにこえるものであること、謙虚に認めなければならない。だから、イエスは言う、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからだ」と。(S.T.)
分かち合いにあること、子孫を残す、家名を残すことではないあり方。
日本人には理解できないあり方。
修道生活を始めたベネディクトについて増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書)でローマでも子孫や家名にこだわる人々の中でベネディクトは全く新しいあり方を現実的に始めたと論じていたと思う。
今、土曜日未明だが偶然、日本の皇族の方々の記者会見をyoutubeで見ていた。戦後日本はよき宗教性の模範を皇族に負わせてきた気がする。
教会の果たすべき役割は大きいと思う。
最近の日本人の生ぬるさを見るとイエスに議論をふっかけるサドカイ派やファリサイ派でさえ勇敢に見えてしまう。
コロナ禍という事情もあるが、大衆食堂や居酒屋で偶然隣り合わせた人々と政治や宗教について論じあった頃が懐かしい。
祈りの人こそ栄華の巷に下って欲しい。
人となられた神・主イエス・キリストに感謝。
日本や世界の情況は、生ぬるいというよりも、まさにサドカイ派やファリサイ派のようだと思う。
情況(世の人々も含めて)に対して何らかの言動をすれば向こうから捕らえられてしまう。
パウロが、別の福音に行ってはいけません、と警告している。
私自身相当危険だった。
永遠の命の捉え方が全く違う、そこを私自身安易に考えていた。自分の置かれた情況にのまれていた。