聖マルチノ -ツール- 司教(記)
集会祈願
🌸 第一朗読 (ローマ16.3-9、16、22-27)
3キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 4命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。 5また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。 6あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。 7わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。 8主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。 9わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。
16あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
22この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。 23わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
5神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。 26その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。 27この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
🌸 答唱詩編 詩編145 典19a ①②
アレルヤ唱 典270 25C
🌸 福音朗読 (ルカ16.9-15)
ルカによる福音
9〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた〕不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
14金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
昨日、私たちはイエスが、自分の将来の雇用を保証するために効果的な手段を講じた、堕落しているが賢明な経営者の例を示したのを見た。今日、イエスは私たち自身の物質的なものの使い方について警告している。
私たちは、「不正な富」を「自分のために友を作り」(私たちの最も大切な友は神である!)、それが失敗したときには(最終的にはそうなるのだが)、「永遠の家にようこそ」と歓迎されるような使い方をしなければならないのだ。私たちは、たとえ話に出てくる狡猾な管理人が、どのようにして自分の将来を確かなものにしたかを思い起こす。
ルカの考えでは、私たちが作るべき友人は貧しい人たちであり、貧しい人たちは、私たちが彼らに富を「投資」したために、神の裁きの座の前で私たちの味方となる。マタイによる福音書にもこうある:
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)。
先ほど、収穫で大金を手にした男が、余生を楽しむために腰を下ろしたという良い例を見た。それは、物質的な財と「友達になる」方法ではない。ある意味では、お金をたくさん持つことは悪いことではない。しかし、その富をどう使うかが問題なのだ:
わずかでも忠実な者は、多くても忠実である。
言い換えれば、もし私たちが自分の人生にもたらされる物質的な財を信頼され、それを神の国を建設するため、より公正で公平な社会を作るために使うことができるなら、私たちはもっと偉大なもの、つまり私たちの神と永遠に向き合って生きることを信頼されるのである。
「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」
そしてまた:
「また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
そしてこの言葉は、私たちの人生にもたらされる物質的な財は(それがどのように手に入れられたものであれ)、私たちの絶対的な所有物ではないことを思い起こさせる。この地上のすべてのものは、すべての人のものなのだ。私たちは、自分のものになったものの管理人に過ぎず、それをどのように使うかで判断される。私たちがそれをどのように使うかによって、神が私たちに望んでおられる限りない幸福という、本当に私たちのものとなるものを受け取れるかどうかが、大きく左右されるのである。
このことは、私たちは同時に、自分自身を完全に神に捧げると同時に、金銭や物質の奴隷になることはできないという次の警告に明らかにつながる。私たちは、イエスに従おうとした金持ちのケースでそれを見た。彼は自分の所有物の奴隷であったので、イエスに自分の人生を明け渡すことができなかった。私たちの多くは、自分にはできると思い、妥協しようとするが、神に完全に身を捧げるためには、金銭の誘惑や物質的なものの獲得から自由にならなければならない。お金や物質的なものを持たないということではなく、持っているものは最終的に神の愛と奉仕、そして兄弟姉妹の愛と奉仕のために使われるのである。
ルカが「貪欲」と呼ぶファリサイ派の人々は、この話を聞いて、イエスを非現実的な理想主義だと嘲笑した。
今日、彼らの意見に同調する者は多いが、イエスの言葉を心に留めている者は、イエスの言葉が真実であることを知っている。しかし、イエスの言葉を心に刻んだ人々は、イエスの言葉が真実であることを知っている。そして悲しいことに、その反対も見てきた。お金と名声と贅沢な暮らしのために、何か貴重なものを失っている人たちがいる:
「…人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)
その反対もまた真実である。私はどちらの立場にいるのだろうか?
Living Spaceより