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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第二十八水曜日(10/16)

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霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です
集会祈願

🌸 第一朗読 (ガラテヤ5:18-25)

使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 

 18〔皆さん、〕霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

🌸 答唱詩編 詩編1 典100 ①④

アレルヤ唱 典272 ㉖

🌸 福音朗読 (ルカ11:42-46)

ルカによる福音

 42〔そのとき、イエスは言われた。〕あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 43あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。 44あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
 45そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。 46イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 イスラエルの宗教指導者とも言うべきファリサイ派の人々や律法学者たちへの厳しい言葉が続きます。外側だけをきれいにする偽善的態度への非難に続いて、細部にこだわってより重要なものを忘れたり、ひそかに人からの賞賛を求めたりする姿勢などに目が向けられます。ルカに限らず、マルコもマタイも、そうした言葉のためにかなりのスペースをあてています。
 いったいなぜ、イエスは悪徳にふける異邦人や偶像礼拝に陥った民族を断罪するのではなく、神に選ばれたイスラエル、しかも、聖書の教えに通じ、神の心を体しているはずのファリサイ派や律法学者たち、いわば、「善人」に厳しい目を向けられるのでしょうか。
 それは、だれの心にも潜む「自己欺瞞」から人々を目覚めさせるためではないでしょうか。善意で、神の道を歩んでいると思いながら、その実、神の心とは似ても似つかない、人間的な思いに縛られ、自らも、そして、その影響下にある人々をも苦しめ、救いの喜びから遠ざけているものから解放するためではないでしょうか。彼らが、単なる知識をもつだけではなく、真心から神を礼拝する、ヨハネが言う「霊と真理をもって礼拝する」(ヨハネ4.24)人、パウロが言う「霊の導きに従って生きる」(ガラテヤ5.25)人となることを望んでおられるからでしょう。
 現代に生きるわたしたちの心にも巣食う「自己欺瞞」の罠から解放され、真の信仰に目覚める恵みを祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

3 comments

  1. 学生時代、「内面が大事」と疑わなかった。ある友人も同意した。服装など何でもいい。ブランド品にあこがれるのは消費文化にどっぷりと浸っているに過ぎない。けれども、別の友人が、「内面があるなら出してみろ」と挑発してきた。何も言い返せなかった。飛躍するが、表面的なものは完全否定されるものなのだろうか。逆に、内面的なものは完全肯定されるのだろうか。「完全」とか「絶対」とかではなく、「相対主義」がいいと言っているのではない。相対主義とは一歩下がって対象に近づかないからだ。人のために何かをしてあげるポーズをとりながら、自分を守っているだけだ。理解は示すが決して近づかない。今日のこのサイトに書かれた文章にも出てくる輩。また、内面の反対は表面ではない。そうしたときに、単なる言葉遊び/対義語の学習に堕してしまう。ひっくり返した方が分かりやすい。表面の反対は体の感覚である。それは言葉にした瞬間に消え去ってしまう陽炎のようなものだ。

    • 内面があるなら出してみろ、と挑発してきた。
      まさにそれを挑発と捉えたところが素晴らしいと思う。

      行きつけのバーのように通っていた告解室の司祭のように、人の内面を静かに、やさしく知る人間になれますように祈りたい。

  2. 偽善と自己欺瞞は他者との決定的瞬間・出会いによって打ち砕いて頂ける。

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