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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第二十水曜日(8/21)

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後にいる者が先になり、先にいる者が後になる

聖ピオ十世教皇(記)

集会祈願

🌸 第一朗読 (エゼキエル34:1-11)

  1主の言葉がわたしに臨んだ。 2「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。 3お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。 4お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。 5彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。 6わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。 7それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。 8わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。 9それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。 10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
 11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

🌸 答唱詩編 詩編23 典123①④

アレルヤ唱 典271 ⑯

🌸 福音朗読 (マタイ20:1-16)

マタイによる福音

 1〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 マタイだけが記す天の国のたとえ。一日中汗水流して働いた労働者と、夕方になって働き始めた労働者が同じ報酬を受けたという話し。人間の常識からすれば考えられないこと。不公平で、正義に反すること。
 イエスは、あえて、そのようなたとえを語ることで、神の世界の独自性、人間の常識を超えた側面を伝えようとされた。マタイの意識の中には、教会の中にあった二つのグループ、つまり、昔から神に選ばれて、多くの恵みを受けてきたイスラエル(ユダヤ人)と、そうした恵みと一切かかわりがなかったにも拘わらず、イエスによって救いに与るようになった異邦人のことがあったようだ。当時の教会共同体の中には、少なからず、そうしたユダヤ人側からの不満が渦巻いていたらしい。
 しかし、そうした救済史的な観点だけでなく、もっと広い意味でも、神の判断の独自性を強調するたとえとしての意義があるのではないか。
 人間は、だれが教えずとも、自分の努力・労働に対する相当な報い、対価を期待する。自分に対しても、人に対しても。しかし、イエスは、何の報いをも期待できない者(病者、障害者、罪びと等)に対しても、神が恵みを施されること、そうした人間の世界の常識を超えた世界があり、それに対して、自らを開いてゆくことで、はじめて人間本来の満足、幸福を得ることができる、と主張する。イエスは、まさに、そのような神の国を人々に知らせ、そこに生きる喜びを伝えることに命を懸けられたのではないか。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 昨日「分かち合い」で引用された1コリント15章8節から10節を久しぶりに見て、いろいろ思い出したが、というか決定的な箇所だと思うが、携帯用の小さな聖書に「回心を出会いというイメージでパウロは描く」というマルティーニ師の言葉がメモしてあった。
    今日の福音で主人は「友よ」と声をかけてくれた。
    うまくまとまらないし、いきなり卑近な話になるが、
    時給ばかり気にせずにバイト先での出会いも大切にしたいと思います。
    どうもすみません。

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