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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第二十七木曜日(10/10)

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まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる
集会祈願

🌸 第一朗読 (ガラテヤ3:1-5)

使徒パウロガラテヤの教会への手紙

 1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 2あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。 3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。 5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 

🌸 答唱詩編 詩編50 典171 ②③

アレルヤ唱 典270 51

🌸 福音朗読 (ルカ11:5-13)

ルカによる福音

 5〔そのとき、イエスは〕弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 昨日に続く、祈りについてのイエスの教え。イスラエルの民は、神との出会いから、祈りについて教えられ、様々な祈りを霊的遺産として残してくれている。詩編だけ取ってみても、150に及ぶ祈りが聖書に記されている。感謝と賛美の祈り、懇願の祈り、嘆きの祈り。それは、まさに、人間が経験する生々しい現実の中から生み出された魂の叫び、と言ってよいかもしれない。イエス自身、そうした祈りから祈りを学び、声に出して、あるいは、沈黙の中で、祈りに専念された。
 そうした中で、イエスは、なぜ、あえて祈りについて教えなければならなかったのか。イエスの祈りの新しさは何だろうか。それは、イエスが、自ら祈る人であるだけでなく、人々の祈りが向けられる神ご自身をだれよりも、よくご存じだったからではないか。イエスにとって、神は、血も涙もない冷徹な裁判官ではなく、わが子のことをだれよりも思い、心に懸ける父だからであろう。
 いくら祈っても聞き入れられない、自分が期待することが実現するわけがないと思う人は、信頼できる大人に出会った経験がない人のように、人のこころのあたたかさを知らないからではないか。イエスは言う、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と。それは、わたしたちが祈る前に、父である神が、人間の必要を人間以上に、ご存じだからである。
祈りは、一方的な要求や懇願ではなく、相手に聞こうとするものに、答えが与えられる神との対話なのである。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

5 comments

  1. 「あなたそれは自意識過剰ですよ。」と山本神父様に言われたことを思い出す。自意識と自己理解がゴチャまぜになっているとき、大概、自己理解は苦痛を伴う。自意識はエンジンふかしてる感じ。まあ朝エンジンあっためるとき方便となるが、やり過ぎはエンジン壊す。
    造反有理と言うより苦痛有理に生きてる。

  2. 人間は自意識なしに生きられない。でも、過剰な自意識は自分を苦しめる。でも、苦しんだ後に過剰だったことに気づく。これに限界を与えるのは宗教なら神なのか?

  3. 友達以上の者というのがまさに今日の福音。
    聖霊。

    加藤周一は友達と待ち合わせするとき森鷗外とか自分が尊敬する人の本を持って行って待ち合わせ場所で読む。すると友達がどんなに遅れて来ても怒ることにはならない。少しくらい遅れても、もっと遅れて来ればいいのに、などと思ってしまう。
    それなら!と求道中から小さな聖書を胸ポケットに入れている。
    まあ、そんな習慣を始めてまもなく想定外のことが起きる。早稲田界隈の路上で偶然、学生時代の指導教官・石川健治先生に再会する。立ち話をしていると、そこに樋口陽一先生も来る。
    「ファンと言うのも軽薄ですが、ファンですのでサインと座右の銘を書いてください」と言って胸ポケットの小さな聖書を差し出すと、
    「この本は何?
    聖書か、、、。
    聖書に付け加える言葉をぼくは持たないな、、。」と言われて、日付と「樋口陽一」と書いてくれた。
    「聖書に付け加える言葉を持たない」
    本当に深い言葉だ。まさに軽薄に、「ならば解説書も神学書もいらない」という意味ではない。
    まあ、聖霊によって読む、とでも言えばいいのか。

    先日、東京から取り寄せた『周恩来 十九歳の東京日記』は読むというよりパラパラと見ている。早稲田、神保町、上野などの界隈と貧乏だが文化的な生活と交友が懐かしい。
    何だか下宿の隣の部屋に周恩来が引っ越して来た感じだ。

    消費的情報より、聖霊に従って生きていきたい。

  4. 自分がどう観られているかという観点から少し身を離してみれば、相手が豊かな情報を送ってくれていることに気づくかもしれません。自分が少しだけ自由になるかも知れません。「君の名は」は眩し過ぎて三回観ないと腑に落ちませんでした。

    • まさに神からでも人からでも、どう見られているか気にすると、罰せられないか、とか、良いことして点数稼ごうとか、して不自由になる。
       神は良い方だから、ひとり一人の自由を最大限尊重してくれるし、来る者を無条件で受け入れてくれる。
       第一朗読でパウロが言う通り、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたから。
       

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