待降節第四主日(12/22)
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう
集会祈願
いつくしみ深く、小さなものに目をとめてくださる神よ、あなたは一人子を遣わし、救いに飢え渇く世界を祝福で満たしてくださいました。主の降誕を迎えるわたしたちが、その生涯にもむすばれますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (ミカ5.1-4a)
エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
2まことに、主は彼らを捨ておかれる
産婦が子を産むときまで。
そのとき、彼の兄弟の残りの者は
イスラエルの子らのもとに帰って来る。
3彼は立って、群れを養う
主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。
今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。
4彼こそ、まさしく平和である。
🌸 答唱詩編 詩編80 典80 ①②⑤
答 神よ、わたしに目を注ぎ、
強めてください、手を差し伸べて。
イスラエルを牧するかたよ、耳を傾けてください。
ヨセフを羊の群れのように導くかた、
光を放ってください。
ケルビムの上に座しておられるかた。 【答】
すべてを治める神よ、あなたの力を現し、
わたしたちを救いにきてください。
わたしたちを新たにし、
あなたの顔の輝きで救ってください。 【答】
すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、
またこのぶどうの木を顧みてください。
あなたがご自分で植えられた苗と、
強められた若枝を守ってください。 【答】
🌸 第二朗読 (ヘブライ10.5-10)
5〔皆さん、〕キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、
むしろ、わたしのために
体を備えてくださいました。
6あなたは、焼き尽くす献げ物や
罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
7そこで、わたしは言いました。
『御覧ください。わたしは来ました。
聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、
神よ、御心を行うために。』」
8ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 9次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 10この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
アレルヤ唱 典257(第四主日BC)
アレルヤ、アレルヤ。わたしは主の召し使い。おことばどおりになりますように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ1.39-45)
ルカによる福音
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
奉納祈願
恵み豊かな神よ、この供えものとともに、わたしたち自身をあなたに委ねます。キリストの死と復活を記念するわたしたちが、ひとり子を遣わしてくださるあなたの愛を深く味わうことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
すべての人に愛を注がれる神よ、この集いから派遣されていくわたしたちを聖霊で満たしてください。主の降誕を心から祝うわたしたちが、多くの人と喜びを分かち合うことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
降誕祭を間近に控えた待降節第四主日には、主の降誕を告げるお告げの場面がよく読まれますが、今年は、なぜか、聖マリアのエリザベト訪問の記事が読まれました。救い主の母となる望外の喜びを告げられたマリアと、同じく、神の不思議なはからいで老齢にありながら母となる恵みを受けたエリザベトの出会いです。
マリアとエリサベト、この二人は、この上ない恵み、同時に、大きな秘密をもってしまった女性たちです。婚約はしたが、一緒になる前に身ごもってしまった乙女マリア。子どもはできないものと諦めていたときに、天使から身ごもることを告げられたエリザベト。だれとも分かち合うことのできない状況に置かれたマリアは、同じような状況にあることを知らされたエリサベトに会いに行きます。
若いマリアは、親戚であり、大先輩であるエリサベトに尊敬の心のこもった挨拶の言葉をかけたに違いありません。しかし、何と言われたか、福音記者は記しません。その代わり、エリサベトが答える前に、「胎の子が躍った」と、ルカは記します。聖霊の働きでしょうか。そして、その子の動きに呼応するかのように、エリサベトは大声で言います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と。自分の喜び以上に、神から類まれな恵みを受けたマリアのことを喜びます。自分の受けた恵み、その恵みを遥かに超える恵みを受けた方が、ここにおられる。そして、その喜びが、まさに、恵みによって授けられた新しい命、神と人を結ぶ神の子の母となる恵みから来ることを悟り、「わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、」と続けます。何と深い悟りでしょうか。この二人が体験された、想像を超える恵みの大きさ、この二人が分かち合う喜びの深さをしばし味わいましょう。
そして、エリサベトは言います、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう、」と。
同じルカの中で、ある婦人がイエスの周りに集まった人々の中から声をあげて、「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11.27)と言ったことがあります。その時、イエスは何と言われたか、「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と。マリアは、神の子の母となる恵みを受けたとき、それを一時も疑わず、生涯、その信じる心で主とともに歩まれました。このマリアの信仰に、少しでもあやかることができますようお祈りいたしましょう。
この二人の女性の出会い、もはや子どもを産む見込みがない、子どもとは縁のない年齢に達した高齢者、そして、まだ、子どもを産む年齢には達していない若い女性。この二人の出会いは、現代の社会がはらんでいる問題の一端に触れていると言えないでしょうか。もはや子どものことは過去のこと、自分の時は終わった、と考え、将来にあまり希望を持たない高齢の女性たち。他方、子どものことなど、まだ考えられない、考えたくもない、自分には、まだやりたいことがたくさんある、と考える女性たち。あるいは、結婚して子どもを産みたくても、とても産める状態ではない、まずは、しっかり働いて生きてゆかなければ、と思う現実的な女性たち。
マリアとエリザベト、どちらも、人間的に見れば、とても子供を産む、母になる、それにふさわしい状況にあったとは言えません。むしろ、それに反する状況に置かれていたのが事実です。しかし、神は、あえて、そのような女性を通して、救いの計画を実現しようとなさいました。「不妊と言われていたのに、もう六か月になっている」と言われたエリザベトが洗礼者ヨハネの母となります。そして、「おとめが身ごもって男の子を産む」と預言されたように、マリアは救い主イエスの母となられるのです。
クリスマスを祝うのは、ただ、過去にあった不思議な出来事に思いを馳せることではありません。むしろ、同じ神の業が、今の時代、わたしたちの間に行われることを信じ希望することです。人間の力だけですべての解決を求めるのではなく、神のはからいに希望をおいて歩き続けることです。力の及ばないわたしたちの間に、神がおられ、ともに歩み、必要な力、助け、光を与えてくださることを、今一度心に刻み、困難な状況の中でも、希望を失わずに歩んでゆくことができますよう、そして、一人でも多くの人に、そうした希望が与えられるようお祈りいたしましょう。(S.T.)