主の恵みの年を告げる
🌸 第一朗読 (ネヘミヤ8.2-4a、5-6、8-10)
ネヘミヤ記
2〔その日、〕祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。 3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。4書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。
5エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。 6エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
8彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。 9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。 10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
🌸 答唱詩編 詩編19 典124 ①②③
答: 主よ、あなたは永遠のいのちのことば
神の教えは完全で、魂を生き返らせ、
そのさとしは変わらず、
心に知恵をもたらす。 【答】
神の定めは正しく、心の喜びであり、
そのみ旨は清く、目を開く。 【答】
神のことばは正しく、」世々に及び、
そのさばきは真実で、すべて正しい。 【答】
🌸 第二朗読 (一コリント12.12-30)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
12〔皆さん〕体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。
アレルヤ唱 典268 3C
アレルヤ、アレルヤ。貧しい人に福音を、捕らわれ人に開放を告げるため、神はわたしを遣わされた。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ1.1-4、4.14-21)
ルカによる福音
1-2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 3そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
🌸 分かち合い
今日、年間第三主日は、2年前から、「神のことばの主日」と定められています。ちょうど、新型コロナウィルスが世界に広がり始め、教会での集会やミサが思い通りにできなくなったとき、フランシスコ教皇がこれを決められたことは実に摂理的と言えるでしょう。2年前と言えば、日曜日になれば当然のように教会に集まり、み言葉を聞き、互いに主における交わりを深めていたわたしたちが、突然、そうしたすべてを奪われることになるとはだれも想像しませんでした。教皇は、そのことを予知しておられたかのように前年2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を公布し、この主日の制定を発表されたのです。
わたしたち信仰者は、世界が神の言葉によって造られ、人類が神の言葉を記した聖書によって養われてきたことを知っています。人間が語る言葉とは違う、神が発せられる言葉によって、すべてのものが生かされ、力づけられ、導かれて存在することを知っています。しかし、残念ながら、多くの人の耳に「神のことば」は届きません。神よりも、人間が語る言葉の方が、大きな力をもっているようです。小さな子どもから、年老いた人々まで、親の語る言葉、兄弟の言葉、友人の言葉、町に流されるスピーカー越しの言葉、メディアを通して届く様々な言葉に惑わされ、踊らされ、傷つけられ、裏切られています。時には、それによって、希望を失い、自ら命を絶つ人さえいます。
そうした人間の言葉が支配する世界に、神の言葉が語られ、神の言葉によって生きる人々が生まれ、新しい歴史を開きました。神の言葉に従って国を出る人、神の言葉によって、新たな使命に目覚める人、命がけで神の言葉を人々に語る預言者が現れました。第一朗読で読まれたネヘミヤ記の中で、捕囚から戻った神の民は、神の言葉=律法によって、困難の中で、国を再建する勇気と力を受けました。民の指導者ネヘミヤたちは言いました、「今日はわれらの主にささげられた日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と。
一方、ルカ福音は、主イエスが、会堂で、はじめてみ言葉を語る場面を描いています。ミサの中で、朗読者が、割り当てられた聖書箇所を、皆のために、力強く朗読するように、イエスは預言者の言葉を朗読します、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げるために、主がわたしに油を注がれたからである」と。預言者が数百年前に、記した言葉を、イエスは人々に聞かせるのです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と。ルカは続けます、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」と。そこに、ただ一人の朗読者ではなく、神のことばそのものである方の存在を感じたのでしょうか。かつて、人々に語り、勇気づけ、奮い立たせた神の人の声、逆境の暗闇の中で、あるいは、よどんだ状態の中で、人々の眠りを覚ます、神のことばを語る預言者以上の、生ける神の声を感じたのでしょうか。イエスは言われます、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。神のことばを語る人ではなく、神のことばそのものである方が、今、皆の前に立ち、自ら語っておられることを宣言されるのです。預言者たちが語り、人々が語り継いできたことが、今、まさに、実現することを、人々は信じることが出来たでしょうか。ヘブライ人への手紙の中で、言われています、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と。その御子が今、人々の前に、会堂におられ、語っておられるのです。
同じ神のことばが、世紀を超えて教会の中で語りつがれてきました。それによって、教会は、様々な困難の中で、誘惑の中で、分裂の中で、アイデンティティ―を保ってきたのです。はたして、今日、わたしたちは、この「神のことば」を聞く姿勢を、耳を、心をもっているでしょうか。何が、妨げとなっているでしょうか。「神のことば」は、決して、耳をふさぐような大きな声で語られるものではありません。かつて預言者エリヤが聞いたような、「静かなささやく声」の中で、主は語られるのです。そのために、静けさと落ち着きが必要です。沈黙が必須の条件です。わたしたちの耳ではなく、心の中にうごめく様々な雑音―煩い、迷い、疑いーを断ち切る必要があります。それこそが祈りのための条件です。忙しい日々の中で、少しでも、そのような沈黙の時を持つよう、つとめましょう。一見、無駄で、非生産的と思われる、そうした時が、神のことばを受け入れるために必要なのです。そんな神のことばに開かれたこころがわたしたち皆の中に根付くように祈りましょう。(S.T.)