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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第三十二主日B年(11/10)

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この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた
集会祈願

🌸 第一朗読 (列王記上17・10-16)

列王記

 10その日、預言者エリヤは立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。12彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」13エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
 主が地の面に雨を降らせる日まで
 壺の粉は尽きることなく
 瓶の油はなくならない。」
 15やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。16主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

🌸 答唱詩編 詩編146 典19①③④

:いのちあるすべてのものは、神をたたえよ。

心を尽くして神をたたえよ。
いのちのある限り神をたたえよ。
わたしは生涯神をほめうたう。
神はとこしえに治められる。 【答】

神はとこしえにまことをしめし、
貧しい人のためにさばきをおこない、
飢えかわく人に糧をめぐみ、
捕らわれ人を解放される。 【答】

神は見えない人の目をひらき、
従う人をあいされる。
身寄りのない子供とやもめをささえ、
逆らう者の企てを砕かれる。 【答】

🌸 第二朗読 (ヘブライ9・24-28)

ヘブライ人への手紙

 24キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったのです。25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

アレルヤ唱 典

アレルヤ、アレルヤ。心の貧しい人は幸い。天の国はその人のもの。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ12・38-44)

マルコによる福音

 そのとき、38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
 41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 私たちは、非常にイメージを重視する社会に生きています。地位、尊敬、そして「顔」は非常に重要です。私たちがどのように見られているかは、私たちが実際にはどのような人間であるかよりも重要です。律法学者やファリサイ派の人は、今日では非常にイメージを重視する人たちとして描かれています。実際にはそうであるよりも、善良で聖なる者であると見られ、考えられることの方がより重要だったのです。今日の福音書の中で、イエスはこう言っています。
 「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望〔む〕。
 私たちがイメージや「顔」を気にかけ、人々が自分についてどう考えているか不安になったり、自分の弱点が目立ち過ぎないか心配したりしていると、私たちは他の人々と自由に交流することができず、また、自分がどのように彼らの助けになることができるかに集中することができません。
 福音書が律法学者やファリサイ派の人々について語っているのは、彼らとまったく同じ問題に苦しむ私たちキリスト者に語りかけているのです。私たちが懸念すべきは、私たち自身のなかにいるファリサイ派の者たちです。さらに言えば、最も懸念すべきは、私自身の中にあるファリサイ派の者なのです。
 今日の福音書の後半で描かれている貧しいやもめと、前半の律法学者やファリサイ派の人々との間には、際立った対照があります。社会的地位を持たないこの女性の素朴な信心深さは、一部のいわゆる宗教的指導者たちの傲慢さと社会的野心と対照的です。また、彼女は、余裕のあるお金を派手に見せびらかす裕福な寄進者たちとも対照的です。
 この貧しい女性は、神の摂理を信じる大胆な行動として、自分の持ち物をすべて、つまりほとんど何も持っていなかったものを、すべて神殿の賽銭箱に入れました。彼女の手元には2枚のレプトン銅貨がありました。彼女は両方とも入れました。律法によれば、彼女は1枚を自分のために取っておいてもよかったのです。しかし、神への奉仕は決して中途半端であってはならないのです。
 列王記上の第一朗読にも、同様の話があります。そこでも、貧しいやもめと彼女の息子が登場します。彼女には、目の前にあるのは死だけしか見えません。すると、預言者エリヤ自身も空腹を抱えながらやって来て、彼女に水とパンを求めます。彼女が自分の境遇を伝えると、彼はそれでもなお「小さなパン菓子」を作ってくれるよう頼みます。彼女は惜しみなく分け与えるという寛大な行為でこれに応じ、その結果、3人分の食べ物に事欠かなかったのです。またさらに、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなりませんでした。メッセージは明確です。皆が与えるとき、皆が受け取るのです。
 愚かな行為のように思えるかもしれませんが、福音の奉仕としてこれを行う人々の例は数え切れないほどあります。今日の福音は、神とイエスの道こそが唯一の真の安心の源であると気づいたときにのみ、私たちは皆が切望する幸福、平和、そして安心を見出すことができると伝えています。
 本当に重要なのは、お金や財産、大学学位、専門職の地位、健康ではありません。これらはすべて、何の前触れもなく消え去ってしまう可能性があります。本当に大切なのは、人々が互いに思いやりを持つことです。
 マルコによる福音書に記されたこの物語は、イエスの教えの生涯と、間もなく続く受難の物語との架け橋にもなっています。このやもめは、自分の持ち物をすべて神に捧げ、神にすべてを委ねました。このやもめは、間もなく、私たちへの愛から、自分の人生、仕事、そして名誉のすべてを父なる神に捧げることになるイエス自身の象徴なのです。
 重要なのは、私たちが何を持っているか、あるいは何を手に入れられるか、何ができるか、あるいは他人が私たちをどう思うかではありません。重要なのは、神の前で、そして他者の前で、自分が完全に、自由に、真にありのままの自分であることです。私は、神が私に必要な支援を与えてくださると確信して、すべてを手放し、自分を神に委ねることができるでしょうか?多くの人がそうすれば、私たちの信仰は確かなものとなるでしょう。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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