人は皆、神の救いを仰ぎ見る
集会祈願
いつくしみ豊かな神よ、あなたの栄光の輝きはすべての人を照らし、悲しみを喜びへと変えてくださいます。救いの道に導かれたわたしたちが、キリストと一つに結ばれる日まで、あなたの愛のうちに歩み続けることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (バルク5.1-9)
バルクの預言
1エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、
神から与えられる栄光で永遠に飾れ。
2神から与えられる義の衣を身にまとい、
頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。
3神は天の下のすべての地に
お前の輝きを示される。
4お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、
その名は永遠に残る。
5エルサレムよ、立ち上がれ、
高い山に立って東の方に目を向けよ。
お前の子らは、
神が覚えていてくださったことを喜び、
西からも東からも
聖なる者の言葉によって集められる。
6お前の子らは敵に追い立てられ、
徒歩でお前のもとを去ったが、
神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、
栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。
7すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、
谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。
それはイスラエルが神の栄光に包まれ、
安全に歩むため。
8森も、香り高いすべての木々も、
神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。
9神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、
喜びのうちにイスラエルを導かれる。
🌸 答唱詩編 詩編126 典154 ①②③
答 涙のうちに種まく人は、
喜びのうちに刈り取る。
神が捕らわれ人をシオンに戻された時、
わたしたちは夢を見ている思いがした。
わたしたちょの顔はほほえみ、
口には喜びの歌が浮かんだ。 【答】
国々の民も叫んで言った、
「神は彼らに偉大なわざを行われた」と
神はわたしたちに偉大なわざを行われ、
わたしたちは喜びにあふれた。【答】
雨の後にネゲブの川が流れを取り戻すように、
神よ、わたしたちに栄を戻してください。
種を手に涙を流して出て行く人は、
束をかかえ、喜びにあふれて帰ってくる。【答】
🌸 第二朗読 (フィリピ1.4-6、8-11)
使徒パウロのフィリピの教会への手紙
4〔皆さん、わたしは〕あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。 9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
アレルヤ唱 典255 第二主日
アレルヤ、アレルヤ。主の道を備え、その小道を整えよ。すべての人は神の救いを見る。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ3.1-6)
ルカによる福音
1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、 2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。 3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
5谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
奉納祈願
万物の造り主である神よ、あなたはすべてのいのちを養い育ててくださいます。きょうも主の晩餐を祝うわたしたちが、あなたに生かされる喜びを深く味わうことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
救いの源である神よ、キリストの体に結ばれて祈ります。あなたのことばに信頼をおき、キリストの道を力強く歩むことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
先週始まった待降節、今日の典礼には、主の来臨の喜びを告げる言葉があちこちに響きます。様々な痛みや苦しみを経験した人々に、救いの訪れが近い、というメッセージが語られます。世間がいち早くクリスマス・セールに希望を見出そうとしているとき、わたしたち主の招きを聞いたものは、より深い希望のありかを、見つけなければなりません。
第一朗読のバルクの預言は、第二正典、あるいは旧約聖書続編に含まれる文書で、滅多に読まれることはありません。バルクは、預言者エレミヤの書記だったと言われ、ユダ王国が滅ぼされ、多くの民がバビロンに連行されたとき、預言者に従って捕囚の身となった人です。彼は、捕囚の地、バビロンからかつての都エルサレムに思いを馳せ、いつの日か、主が愛されたエルサレムを覚え、必ず栄光を与えられるという希望を語ります。「エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ、」と。
それから数世紀が経った頃、ユダヤの地は再び強大な帝国の支配のもとにありました。ルカ福音書は、神の民が待ち望んでいた救いが、いかなる現実のもとに到来したか、冷静に歴史的な事実を踏まえて書き始めます。「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と。これは、決して、単なる歴史的なデータではありません。当時のユダヤ社会を牛耳る人々、辺境ユダヤの宗教上の問題には一切関与したくない権力の座に座る人、関心を持ちつつも、それ以上のかかわりを持とうとしない人、体制維持に汲々とし、自分たちの生き方にかかわる内心の問題には触れようとしない宗教指導者。そのようなメシアの到来には、保身以上の関心を示さず、かえって、見かけの平安だけを維持しようとする人間が作り出す環境の中に、神の言葉が降るのです。
メシアの先駆けとしての使命を帯びたヨハネは、まだ一言も発しません。しかし、彼の存在、登場自体が、神の訪れの時を示します。ヨハネは、後に、自らを、メシアではなく、「荒れ野に叫ぶ声」と紹介します。それは、引用された預言者イザヤの言葉から取られたものです。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」と。
これは、先に第一朗読で読まれたバルクの預言が示唆していた、捕囚の民がエルサレムに帰還することを意味する第二イザヤの言葉です。悲惨な状況に追い込まれ、希望を失い、あきらめが支配する中で、人間の力を超え、想像も及ばない神の救いの業が今にも実現する希望を歌った預言です。人間の常識、人間中心の思惑、人間の骨身にこびりついた偏見と思い込みをことごとく打ち破る、神の偉大な業が今にも現実のものとなる、そんな期待の中に洗礼者ヨハネは登場します。
16日後に迎える主の降誕(クリスマス)は、世間の人々の思いとは異なり、まさに、そうした未曽有の出来事であることを、あらためて心に刻みましょう。そして、暗闇に輝く光が人々に希望と喜びをもたらすように、今、様々な脅威、不安、恐れに捕らわれている人類社会の上に、お生まれになる主だけが与えることのできる、真の平和が訪れるように、そして、それを少しでも味わうことのできたわたしたちが、一層その喜びを人々と分かち合う恵みをお祈りいたしましょう。(S.T.)