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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第二十九主日(B)(10/20)

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あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
集会祈願

恵み豊かな神よ、ひとり子イエスは、すべての人の救いのために自らのいのちをおささげになりました。わたしたちが苦しみや試練の中にあっても、主の十字架のうちの希望を見出すことができまように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (イザヤ53.10-11)

10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
11彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

🌸 答唱詩編 詩編33 典46 ①④⑤

答 神の注がれる目は、神を恐れる者に、
  神の愛に希望をおく者の上に。

神の言葉は正しく、
そのわざはいつわりがない。
神は正義と公平を愛し、
いつくしみは地に満ちている。 【答】

神はその住まいから、
地に住むすべての人に目を注がれる。
神は一人ひとりの心をつくり、
そのわざを見抜かれる。  【答】

神はたて、神はすくい、
わたしたちは神を待ち望む。
心は神のうちにあってよろこび、
とうといその名により頼む。 【答】

🌸 第二朗読 (ヘブライ4.14-16)

 14〔皆さん、〕わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

アレルヤ唱 典270 29B

アレルヤ、アレルヤ。人の子が来たのは使えるため、多くの人のあがないとして自分の命を与えるため。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ10.35-45、または10.42-45)

マルコによる福音

 35〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

奉納祈願

すべての人の父である神よ、招かれた喜びのうちに私たちはあなたのもとに進み出ます。主の死と復活うを記念するわたしたちのうちに、自分をささげる心がはぐくまれますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

信じる者の力である神よ、キリストのからだのうちに一つに結ばれて祈ります。わたしたちが互いに兄弟姉妹として、喜びや苦しみをともにすることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 イエスに招かれ、従っていった弟子たち、中でも、一番近くで信頼を寄せられていた兄弟、ヤコブとヨハネがイエスが栄光をお受けになる時に、一人は右に、一人は左に着かせてください、と願ったとしても、簡単に非難できない気がします。二人のことで「腹を立て始めた」残りの使徒たちも、同じ思いをもっていたのかもしれません。
 しかし、実は、この箇所の前後を読むと、イエスがお受けになろうとしている受難について、3回目の予告をなさった直後だということに驚かされます。しかも、御自分が異邦人の手に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、殺されることをはっきりと言われたのです。しかし、そんなことは一切聞かなかったような弟子たちを非難するどころか、イエスは思いもよらぬ教えを宣べられます。「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい、」と。
 どんな社会でも、上に立って、指導・支配する人もいれば、もっぱら人々に仕え、僕のような仕事につく人もいます。イエスが生きた時代、イスラエルの社会にも、王や総督だけでなく、人々に指図を与える先生と呼ばれる人、祭儀を司る人、議会のメンバーになる長老がいました。イエスは、そのうちのどれにもならず、生涯、人々に仕えるものとなり、神の僕としての使命に徹しておられました。そして、ヨハネ福音書が記しているように、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗い、自ら僕の仕事を引き受けられました。それは、その場のパーフォーマンスではなく、ご自身の生涯がまさに、そのような僕としての生涯であることを、身をもってお示めしになったのです。
 イエスが晩餐の後、捕えられ、引いて行かれた時、弟子たちは恐怖のあまり、皆、逃げて行きました。十字架のもとには、女性たちとヨハネだけが残ったと福音書は記します。復活体験の後、弟子たちの目を開いたのは、今日の第一朗読で読まれたイザヤ預言者によって暗示された僕の姿でした。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った、」と。
 神が、そのような小さな者となる、人々に仕える者、皆の僕になると言うことは、神御自身が人となってこの世に生きられること以上に奥深い神秘です。神御自身の限りないへりくだりであるとともに、この小さく醜い人間ひとりひとりに対する尊敬と愛のあらわれであると言ってよいでしょう。
 イエスは、そのような神の愛を自らの生き方で示されただけでなく、わたしたちも、同じ神のへりくだりと愛にあずかるように、同じ生き方を人間の理想として示してくださいました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」  こうしたイエスが示したくださった生き方は、そう簡単に近づくことはできません。弟子たちのように、つい自分がいちばんに、という思いが先立ってしまうのが現実かもしれません。様々な出来事や出会いを通して、特に思いがけない失敗を通して、自分が小さくされ、低くされることを喜んで受け入れ、それによって、イエスが約束される真の喜びと平和に満たされ、イエスの福音を人々に伝える使命を果たすことができますよう祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。