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教皇の意向:子を失った親 (11月)

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年間第十二主日(6/23)

「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」
集会祈願

天と地の主である神よ、大きな変化を遂げる現代社会にあって、教会はいつもあなたの力強いことばに導かれています。きょう心を合わせて祈るわたしたちが、あらゆる悪の力を退け、ゆるぎない信仰をつちかうことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ヨブ38.1、8-11)

1主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
8海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
9わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
10しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
11「ここまでは来てもよいが越えてはならない。
高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

🌸 答唱詩編 詩編107 典40 ⑥⑦⑧

  神のいつくしみをとこしえに歌い、
   主のまことを代々に告げよう。

沖に向かって船出する者、
海を渡ってあきないする者、
彼らは大海原で
神の不思議なわざを見た。  【答】

彼らが苦悩の中から神に助けを求めると、
あらしは静められ、海はなぎとなった。
神は彼らを目ざす港に導かれ、
彼らは静かな海を渡った。  【答】

人の子らよ、神のいつくしみと
その不思議なわざに感謝せよ。
民のつどいで神をあがめ、
長老の集まりで神をたたえよ。 【答】

🌸 第二朗読 (二コリント5.14-17)

 14〔皆さん、〕キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

アレルヤ唱 典272 12B 

アレルヤ、アレルヤ。偉大な預言者がわたしたちのうちに現れ、神は民を訪れてくださった。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ4.35-41)

マルコによる福音

 35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

奉納祈願

信じる者の希望である神よ、救いに飢え渇く者の声に、あなたは必ず耳を傾けてくださいます。キリストの食卓を囲むわたしたち一人ひとりを祝福し、豊かないのちで満たしてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

神よ、勝利と力はつねにあなたのものです。恵みの糧で養われ、新たにされたわたしたちが、恐れや不安に打ち勝ち、神を信じる喜びをすべての人に示すことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今年の年間の日曜日は、マルコの福音書を読んでいる。マルコの福音書では、イエスの本当の姿が徐々に明らかにされていく過程が読者に描かれている。今日の朗読では、2つの教訓が教えられているようだ。

湖を渡る
 今日の箇所では、イエスは弟子たちにガリラヤ湖の対岸に舟で渡るように言われる。ヨハネによる福音書では、この場面は、群衆が非常に興奮してイエスを自分たちの王にしようとした5,000人の給食の直後に続いている。弟子たちも同じような考えを抱いていたかもしれないので、イエスは彼らを舟に乗せた。彼らが舟に乗り込むと、他の舟も何艘か同乗していた(このことは、教えの後半部分に何らかの意味があるようだ)。また、福音書によれば、彼らは群衆を置き去りにしたという。群衆は頻繁にイエスの周りに集まってくるが、彼らはイエスの信者の中には入っていない。彼らはイエスの話に耳を傾け、その奇跡に驚嘆するが、せいぜい潜在的な信者でしかない。彼らは決してイエスと共にいるわけではない。私はどのグループに属しているのだろうか?イエスと一緒にいることを約束した内輪のグループか、それとも自分のために何が拾えるかを見ているだけの傍観者なのだろうか?

脅威の嵐
 彼らが湖を渡るとき、突然嵐が吹き荒れた。ガリラヤ湖は突然の嵐で有名だという。大きな波が舟の上に打ち寄せ、舟を水で満たした。当然、弟子たちは非常に恐れ、船が沈むのではないかと思った。しかし、その間中、イエスは舟の後ろの方で眠っておられた。慌てた彼らはイエスを起こした:
 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。
 イエスは目を覚まし、風を叱り、海に向かって言われた:
 「黙れ。静まれ」!
 すると、風は止み、完全に静まり返った。そして今度は使徒が叱られる番だった:
 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
 彼らは畏敬の念と驚嘆のまなざしで彼を見つめた:
 「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」。

私は海と空の主だ。
 彼らは、風や海や他の要素をコントロールできるのは神だけだと知っている。これがヨブ記から引用された第一朗読のテーマである。神がヨブに語る荘厳な言葉に耳を傾けよう:

 ……海は二つの扉を押し開いてほとばしり
 母の胎から溢れ出た。
 わたしは密雲をその着物とし
 濃霧をその産着としてまとわせた。
 しかし、わたしはそれに限界を定め
 二つの扉にかんぬきを付け
 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。
 高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

 ここには、海の力を前にした古代人の畏敬の念と、神が海と水の創造主であり主であることの承認がある。答唱詩編(詩編107:23-26,28-32)は、当時の船乗りたちが、風と波の前にか弱い帆船で恐怖を感じていたことを響かせている:

 沖に向かって船出する者、
 海を渡ってあきないする者、
 彼らは大海原で
 神の不思議なわざを見た。

 信仰のある者たちは、風と波の力の中に神の力を見ることに何の困難も感じなかった。この言葉は、船の中で弟子たちが「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」弟子たちは二つ返事で従い始めた。海を支配する力を持つのは神だけだが、イエスはまさにその力を彼らの目の前で行使されたのだ。
 今日の詩編(107)から:

 主は仰せによって嵐を起こし
 波を高くされたので
 彼らは天に上り、深淵に下り
 苦難に魂は溶け〔た。〕

 あの嵐は単なる事故だったのだろうか?弟子たちがイエスについての重要な教訓を学ぶために、同じ人物によって始められ、また止められたのだろうか?

 彼らが苦悩の中から神に助けを求めると、
 あらしは静められ、海はなぎとなった。
 神は彼らを目ざす港に導かれ、
 彼らは静かな海を渡った。

 そして最後に、
 彼らは波が静まったので喜び祝い
 望みの港に導かれて行った。

 しかし、待てよ!イエスがこのようなことをしているのだ!考えられる説明は一つしかない。イエスは神の力を持っておられ、イエスは神の性質を持っておられる。彼らが目の前の男に対する畏怖と恐怖に満たされるのも無理はない。イエスの正体の神秘は、彼らの目の前で徐々に解き明かされていくのだ。

世界における教会像
 しかし、今日の福音には別の教えも含まれているようだ。私たちはこの物語を、教会、特に初代教会、そして現代に生きるさまざまな場所にある教会の、一種のたとえ話、あるいは寓話として読むことができる。ここでも、また福音書の他の箇所でも、舟は教会を象徴していると見ることができる。そして実際、前述したように、船はいくつもあり、各地の教会や教会共同体を象徴している。各々がそれぞれの方法で問題に対処しなければならない。ひとつの舟にはイエスの弟子たちが乗り、イエスは彼らとともにおられる。彼らの周りの水は世界を表している。当時の教会は、巨大でしばしば敵対的な世界に浮かぶ、小さくて壊れやすい舟のようなものだった。時には嵐が吹き荒れ、船である教会を脅かすこともあった。初期の教会は、そしてその後の教会もまた、多くの迫害や、教会を消し去ろうとする動きに苦しんだ。

イエスはどこにいるのか?
 このような混乱と恐怖の中で、小さな教会共同体は「イエスはどこにいるのか」と問いたくなったに違いない。イエスは遠くにおられるように見え、眠っておられるように見え、自分たちに何が起こっているのか気にも留めておられないように見えた。それでも、彼らの共同体は存在し続けた。祈りの中で、彼らはイエスがまだ彼らとともにおられることに気づいた。そして、彼らは内なる平安を経験し始めた。嵐は海の中にあるのではなく、自分たち自身の恐れや不安の中にあることに気づいたのだ。平和は自分たちの心の中にもあったのだ。彼らを取り巻く世界は相変わらずであったが–世界は変わらず、彼らを迫害し、抑圧し続けていた–、変わったのは彼ら自身であり、イエスの配慮に対する確信と信頼を取り戻したのである。パウロが第二朗読で述べているように:
 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

キリストだけが与えることのできる平安
 もしかしたら私たちは今、人生や社会で何らかの恐れや不安を経験しているかもしれない。もしかしたら、私たちの地平線上に脅威が迫っているかもしれない。私たちはイエスの平和をとても必要としている。多くの場合、私たちは社会の政治的、社会的な動きをコントロールすることはできない。しかし、どのような状況にあっても、イエスの助けによって、私たちは平安を見出すことができる。それはイエスだけが与えることのできる平和である。そして、どんな人も、どんなものも、私たちから奪うことのできない平和なのだ。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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