年間第十一主日(6/16)
神の国を何にたとえようか。
集会祈願
愛といつくしみに満ちた神よ、あなたはキリストによって始められた神の国を、力強く成長させてくださいます。ここに集まるわたしたちがあなたの働きに心を向け、み旨の実現に協力するものとなりますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (エゼキエル17.22-24)
22主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。 23イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 24そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。
🌸 答唱詩編 詩編 典
答 たて琴をかなで、楽の音に合わせて、
わたしは神をほめ歌う。
神よ、すべてを越えるあなたの名をたたえ、
あなたに感謝をささげることはすばらしい。
あしたにあなたのいつくしみを、
夕べにまことをのべつたえ、
たて琴をかなで、楽の音に合わせて、
わたしはあなたをほめうたう。 【答】
神に従う人はなつめやしのようにさかえ、
レバノンの杉のようにそびえる。
神の家に植えられたひとは、
わたしたちの神の庭でさかえる。
年を経てもなおみがむすび、
いつもいきいきとおいしげる。 【答】
🌸 第二朗読 (二コリント5.6-10)
6〔皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。〕わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 8わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
アレルヤ唱 典268 11B
アレルヤ、アレルヤ。種は神の言葉、まく人はキリスト、キリストを見いだす人は永遠に生きる。
🌸 福音朗読 (マルコ4.26-34)
マルコによる福音
26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
奉納祈願
いのちの源である神よ、麦とぶどうからつくられた供えものを準備して祈ります。ここに記念するあなたのすくいのわざが、わたしたちの中で豊かに実を結びますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
秘跡によって養って下さった神よ、わたしたちのうちにまかれた福音の種を、あなたの霊の助けによって実らせてください。神の国の成長を力強くあかしすることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
年間の季節に入り、主日の福音は、マルコが読まれます。今日の箇所は、イエスの有名な「種を蒔く人のたとえ」に続く、マルコだけが記す「成長する種」のたとえと、それに続く部分です。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのだ」、とあります。つい、読み過ごしてしまいますが、「ひとりでに」という言葉は、「自ら」とも訳され、原文では、わたしたちがしきりに使う「自動的」という言葉のもととなるautomatē という言葉です。人間が、長年の経験と知恵をつくして世話をし、いかにも自分たちの努力で成長させたと思いがちですが、実は、土、あるいは、種そのものがもっている可能性が花開くのだという、きわめて根本的な真理を教えるたとえで、神の国はまさにそのようなものだ、とイエスは言われるのです。
わたしたちが今住んでいる世界、それは、多分に人工的な、便利で快適で、住みやすい世界です。多くのことが労せずに手に入り、利用することのできる世界です。何事も、自分の都合、計画、望みに従って操作できることが当然と思いがちな世界です。そこでは、面倒な手順が省かれ、短時間で結果の出ることが好まれ、いたずらに手間のかかる、面倒なものは忌避される社会です。人間関係しかり、子育てしかり。料理にしても、旅行にしても、ゆっくりと時間をかけて、その過程を楽しみ味わう余裕もないまま、いたずらに、自ら設定した目標を目指し、自らに課したノルマを果たし、疲労とストレスだけを蓄積する生き方を続けているかもしれません。そんな生き方を振り返ることができたら、自粛生活も決して無駄ではありません。
神が造られた世界は、すべて、良い物として、人間がそこから恵みをいただくものとして存在します。しかし、それは、必ずしも、人間の思い通りに、人間の都合に従って動くものではありません。そして、そこに存在するものには、互いにつながりがあり、その関係の中でのみ、存在を続けられる性質が植え付けられています。しかも、それぞれの時があり、それを尊重しなければ、存在そのものを滅ぼすことになりかねません。フランシスコ教皇が回勅『ラウダ―ト・シ』の中で訴えておられる人間が生きる環境―「ともに暮らす家」―への配慮は、まさにそのような存在の秘儀への深い洞察から来るものではないでしょうか。そして、それはイエスが、生涯をかけて宣べ伝えようとした「神の国」の根本原理と言うべきものだと言えるでしょう。
今日の第一朗読で読まれた預言者の言葉には、そのようなイエスの思いー神の国の実現―の背景となる考えが語られています。預言者エゼキエルは言います、「わたしが高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。・・・それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。・・・そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる」と。
これは、捕囚時代に、やがて訪れるメシアの時代のことを語った言葉と言われますが、そこには、イスラエルが犯したあやまちと辱めを神が受け止め、あらたな世界が神によって打ち立てられることへの希望が語られています。
かつて、イエスラエルの王時代に、王たちは競ってレバノンの森から木を切り倒し、壮麗な神殿や王宮の建設にあてました。さらに、後の時代には、その優れた材質は、地中海を行き来する帆船のマストに使われたと言います。レバノンの国旗に描かれた杉は、今や、絶滅の危機にさらされています。これは、人類が今まさに、直面している環境問題の原点とも言うべきものではないでしょうか。
わたしたちが生きる世界にあふれる神の恵みに感謝しながら、その恵みを、己の利益のために搾取するのではなく、そこに秘められた可能性を重んじ、人間もそこに組み込まれている環境全体への配慮を忘れず、へりくだった心で生かすことで、神の国の実現に貢献することができるよう、祈りましょう。(S.T.)