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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

聖マタイ使徒福音記者(9/21)

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わたしが求めるのは憐れみであって、
集会祈願

🌸 第一朗読 (エフェソ4:1-7、11-13)

使徒パウロのエフェソ教会への手紙

 1〔皆さん、〕主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 2一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 3平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 4体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 5主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 6すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 7しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
 11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

🌸 答唱詩編 詩編19 典147 ①②

アレルヤ唱 典277 聖マタイ

🌸 福音朗読 (マタイ9:9-23)

マタイによる福音

 9〔そのとき、イエスは〕通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 教会は使徒の基礎の上に立っていると言われるが、わたしたちが使徒について知ることは多くない。今日記念する使徒マタイも同様。マタイという言葉を聞いて、すぐ思い出すのは、マタイ福音書のこと。しかし、マタイについて知っているのは、彼がもともと徴税人でありながら、主イエスの招きに応えて弟子、さらには、12使徒の一人となったことくらい。
 マタイ福音書の著者と見做されるほど、彼は、使徒として、共同体から尊敬されたに違いない。しかし、「徴税人」という仕事は、当時ユダヤを支配するローマに収める税金を取り立てる仕事で、4世紀の教父クリゾストモが、「徴税人よりも嫌われた仕事はない」と記しており、福音書の中で、度々「徴税人や罪人」と並べて記されるほどだった。主イエスがそうした身分の人間と食事を共にし、弟子に、さらには使徒にしたのはなぜか。
 マタイ自身どれだけ、自分を罪人として認めていたかわからない。しかし、今日の福音にあるとおり、マタイは、主の言葉を聞いて「立ち上がってイエスに従った」とある。これは、それまでの仕事をすべて捨てて、まったく新しい道を歩み始めたことのしるしである。フランシスコ教皇は、カラヴァッジオが描いた「マタイの召命」の場面を痛く愛され、ローマに赴くたびに、その絵が納められた教会をたずねた、と言われる。
 自らを誇ることのできない、小さな、あるいは、罪人と認める人間を受け入れる神の心を知るととともに、自身、自らの弱さ、醜さを認める心、主により頼む心が十分あるか弁え知る恵みを祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. カラヴァッジオの「マタイの召命」を痛く愛されたフランシスコ教皇!
    やはり我等の同志。
    カラヴァッジオだってキリスト教爛熟期ではなく旧約時代に生まれていればモーセやヤコブになっていただろう。
    死刑囚や精神障害者だってデジタル治世下でなければチャーチルやド・ゴールひいてはジャンヌ・ダルクになっていたかもしれない。
    2013年3月13日午後7時二階自室ラジオで新教皇誕生を知り慌てて階段を降りテレビのある父母の部屋に駆け込むと母は満面の笑みを浮かべ、ティッシュペーパーの箱にメモした文字を僕に示した。ベルゴリオ。
    テレビの画面には真っ白い鳩の親分が映っている。

    同年復活徹夜祭、ぼくは何か強烈な違和感に従い途中退席。
    初めてイエズス会から教皇が誕生したと言って喜んでいる場合だろうか。フランシスコ教皇の前任者が辞めた理由の中心はカトリック司祭による児童への性的虐待だろう。絶対にあってはならないことだ。フランシスコ教皇が最後の教皇になるかもしれない。教会が、世界が終わってしまうかもしれない、、。
    後日、主任司祭佐々木良晴神父様は、じっと黙って聴いてくれた、母の心で、母なる教会を代表して。

    私は正義を信念とするが、まず母を守るだろう、と言ったカミュ。
    ノーベル賞なんて辞退して、助手席にガールフレンドなんて乗せずに運転していれば死なずに済んだかも。

    ぼくはまだ死ねない。
    すべてを捨てて世界の母子を守りたい。

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