助祭・殉教者(祝日)(?〜ニ五八)
ローマ時代の殉教者の中でもっとも有名な聖人は、聖ラウレンチオでした。その殉教についていちばん主な資料は、プルデンチオ(三四ハ〜四一五?)の聖ラウレンチオへの歌です。しかしその細かいところは、歴史的な事実であるか、それとも詩人のみごとな創作であるかはっきりしていません。とにかくラウレンチオが、シスト教皇の助祭だったことは確かでした。プルデンチオの歌によれば、教皇が役人によって死刑場に連れていかれる時、彼ラウレンチオが「あなたを手伝った助祭を残してどこに行かれるのですか」と尋ねると、「私はあなたを置いては行かない。あなたはすぐ私についてくるでしょう」と答え、まさにそのとおりになりました。
ラウレンチオが、社会福祉のためのローマ教会の財産管理者であると知った総督は、管理している財産を全部差し出すよう命じました。ラウレンチオは、それを集めるために三日間の猶予を頼み、その間に全部貧しい人たちに配ってしまいました。三日目に総督の前に出た時、彼の周囲には身体障害者や貧しい人たちがたくさんついてきていました。彼は総督に向かって、「この人たちは教会の宝物です。その姿の中に、最高の宝であるキリストが生きておられます」と言いました。だまされ、ばかにされたと思った総督は、「お前は死にたいのだな。確かに死なせてやるが、ゆっくり死ぬことになるぞ」と言って、鉄の網の上に彼をのせると、とろ火でじりじりと身体を焼きはじめました。彼は勇敢にそれに耐えるだけでなく、ユーモアと皮肉でもって、「もう背中の方は十分焼けたので、そろそろ向きを変えたほうがいいのではありませんか」と刑吏に声をかけました。また「もうすっかり焼けましたから召し上がってはいかがでしょう」とも言い、ローマ市の改宗と、キリストへの信仰が全世界に広がるよう祈って、息絶えました。プルデンチオによれば、その祈りは大きな実を結びました。ラウレンチオの殉教を見守っていた数人の元老院議員が、彼の信仰と勇気に強く心打たれ、その時からローマの神々への信仰は衰えを見せ、キリスト教が広まったと伝えられています。そして、プルデンチオがその歌を書いた時には、すでに元老院が「会」としてラウレンチオの墓を訪れて祈る習慣になっていたようです。
彼の遺体はローマの壮麗な聖堂に安置されていて、彼にささげられた教会も世界にはたくさんあります。その中には、「世界の八番目の不思議」と呼ばれる、スペインのエル・エスコリアルにある教会、修道院、宮殿、王家の墓地、図書館を含む壮大な建物もあります。
残酷な苦しみに打ち勝った聖ラウレンチオの取り次ぎによって、彼が愛したことを愛し、行なったことを行なうことができるよう祈りましよう。
C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。