(司祭・記念)(一七八六〜一ハ五九)
ヨハネ・マリア・ヴィアンネは、日本の江戸時代後期、フランス革命の三年前、リョン地方の小さな村で生まれました。彼は、小さい時から家畜の牧者として働きました。その頃、フランス革命によって教会に対する迫害が起きたため、公にミサをささげることができなくなり、神父は変装して、信者の家でひそかにミサをささげていました。彼もそのようなミサに与りながら、十三歳の時に初聖体を受けました。十八歳の時に神学校に入りたいと父に頼みましたが、家族のために彼の労働力が必要でしたし、経済的な余裕もなかったので、許されませんでした。
ヨハネは、ニ〇歳になってやっと神学校に入ることができました。しかし、その喜びはすぐに苦しみに変わりました。それまで教育を受ける機会がなかった彼は、勉強ができなくて落第ばかりすることになり、いつ退学させられるかと心配の連続だ・ったのです。教区の司教も、ヨハネは司祭職には向いていないのではないかとずいぶん迷いましたが、神学校での評判はすこぶるよく、神学生の模範ですという答えが返ってきました。二九歳の時、さまざまな不安はありましたが、ョハネは司祭に叙階され、教区の中でももっとも小さなアルスという田舎に送られました。
アルスという村は、小さいだけではなく、村人は信者でありながら非常に不熱心でした。ヨハネは、四一年間、主任神父としてこの村に留まりましたが、彼は、愛、親切、長い説教、特に長い祈りと厳しい苦行をもって、村人たちを神に導くため懸命に働きました。アルスでの主任司祭の食事は次のとおりでした。一週間に一度、まとめてじゃがいもを蒸してもらい、そのじゃがいもと堅いパンで毎日を暮らしていました。睡眠は三〜四時間、まるで超人的な生活でした。彼は、自分に対しては非常に厳しかったのですが、他人に対しては優しく、「私は信者に対して一度も怒ったことがない」と言っていました。信者の家を訪れては親に挨拶し、子どもたちと遊んだり、悩みを聞いたり、父なる神について楽しく語りました。そのうちに毎朝のミサに与る信者の数も増え、夕方いっしょにロザリオを唱えたりもしました。そのうち、村人の罪が少なくなり、特にアルスで多くの罪の源になっていた飲酒が減りだしました。熱心な信者に手伝ってもらって、「御摂理」という孤児院のような施設も作りました。六〇人ほどの収容児のために、食事代やら諸経費に頭を悩ませましたが、経済的な援助がどこからもなかったのに、彼の涙ぐましいほどの努力や奇跡によって、それは維持されていきました。彼の祈りによって二回食物を増やしたことが、多くの証言によって明らかにされています。
数えきれないほどの彼の働きを目の当たりにして、村人たちは、自分たちが聖人の傍に住んでいるのだと認めざるを得なくなりました。そして、その評判がだんだん全ヨーロッパに広がり、あまり人に知られていなかったアルスの村に、毎日何百人もの人がゆるしの秘跡を受けるためにやって来ました。おかげで彼は、冬には凍りつくほど冷たく、夏にはかまどのように暑い告白所で、毎日十八時間も過ごすことになったのでした。神から超自然的な力を与えられ、信者たちの忘れた罪、隠している罪、まだ口にしていない罪を感知し、たった一言で励まし、心の痛悔と慰めをその人びとに与えました。その評判が、彼にとっては何よりの苦痛でした。自分は何の取り柄もない司祭であると常々思い、三回も村から逃げ出して、だれも知らない修道院に姿を隠そうとしましたが、司教の命令によって、またアルスに帰ってきたのでした。最後の年には、一〇万人の巡礼者がアルスの村にやって来ました。司祭館から教会の入口までわずか十二メートルしか 離れていませんでしたが、人びとがみな話しかけたり触ったりしましたので、十二メートル歩くのに三〇分もかかったといわれています。年をとっていたアルスの司祭は、その苛酷さに耐えることができませんでしたので、最後の説教の声は弱々しく、だれにも聞き取ることができませんでした。が、ことばよりも熱心さの溢れている顔を見るだけで、人びとは十分でした。そして、彼に死が迫っているとわかって、四〇キロの道のりを急いで歩いてきた司教は、最後の瞬間に彼をしっかりと抱くことができたのでした。
彼の葬儀は、死別の悲しみより、むしろ勝利の喜びに溢れていました。そして彼の死後、アルスへの巡礼は、衰えるどころか、聖人の取り次ぎを願う人びとによっておびただしく増えています。
アルスの主任司祭の取り次ぎを願って、全世界の主任司祭のために祈りましょう。
C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。