(司祭・記念)(1170頃〜1221)
日本でいえば平清盛が太政大臣になった三年後、ドミニコは、スペインの中心にあるカスティリャ(カステラの名はここに由来します)の、小さな城の城主の息子として生まれました。以前、近くに住んでいたシロスの聖ドミニコの名と、シロスにあった修道院の影響を受けて大学で学び、小さな教区の大聖堂の司祭たちの組(教会参事会)に入りました。その司祭たちは、聖アウグスチヌスの会則に従って、修道士のような生活をしていました。彼は、学者、教授、司祭と三つの役目を持っていましたが、やはり司祭職をいちばん優先していましたので、無黴があった時、苦しむ人びとを助けるために自分の大切な書物を売ることを惜しみませんでした。
カスティリャの国王は、ドミニコの教区の司教に、王子の花嫁探しを依頼しました。そこで司教は、ドミニコを供につれて、デンマークまで行きました。南フランスを通った時のこと、ドミニコは、異端のアルビ派によって悩まされ、カトリックの信仰から離れているその地方の惨めな状態を見て、たいへん心を痛めました。そのため、デンマークからの帰途、祖国には帰らず、その地方に残りました。そして、村人たちを信仰に引き戻すための努力をいろいろ試みましたが、みな失敗に終わりました。彼はその原因を考えるうちに、「りっぱな服を着、りっぱな馬に乗っていて、どうして人びとをキリストのもとに導くことができようか。よい話を聞かせるよりも、まず模範を示さねばならない」と悟り、粗末な服を着、裸足で歩く貧しい生活に身を置いて、町から町へ、村から村へとその異端者の回心のために励み、救済のために身を投じました。
彼のそのような行ないは、同じような生活をしたいと思う人びとを彼のもとに集めました。彼には、その人びとといっしょに何をなすべきかがはっきりわかっていました。その頃の教会の一つの病は、普通の司祭の教育のレベルが低かったために、信者を教え導くことが十分にできる説教者が非常に少ないということでした。彼は、自分の仲間になる人たちに徹底的に神学を学ばせ、模範的な生活をおくらせ、十分な説教ができる集団作りをし、それを「説教者会」と名づけました。
しばらくして、彼がフランスからローマに行くと、公会議で新しい修道会作りを禁止したことを聞かされました。彼の努力は、またまた失敗に終わったのでしょうか。当時の言い伝えによれば、その頃教皇は夢の中で、ラテラン大聖堂、すなわち教皇の大聖堂が倒れそうになり、その崩れかかる聖堂を二人の人間がー生懸命支えている姿を見ました。その二人がドミニコとアッシジのフランシスコであるということをあとで知った教皇は、修道会設立の許可を与えました。夢の話がほんとうかどうかは別にして、その内容は非常に有意義なものです。フランシスコとドミニコは、それぞれの立場からずいぶん違った修道会を創りましたが、ともに十三世紀の教会に一つの黄金時代をもたらしました。後に彼の修道会から、学問の光を放つ聖アルベルト、聖トマス・アクイナスがあらわれて、彼の望みを実現しました。
パリなどの有名な大学では、彼の修道会から出た教授によって、神学は新しい頂点にまで導かれました。また、驚くべき速さで発展していった修道会を指導するために、彼は絶え間なく旅行し、修道院から修道院へと徒歩で訪問し続けました。その一つの訪問地べニスからの帰途、病にかかり、自分の子どもたちである修道士に、「たがいに愛徳を持ちなさい。謙遜を保ちなさい。自ら清貧を守りなさい」と言ったのが遺言となりました。人びとは彼が死ぬ前から、その遺体を貴重なものとして競って手に入れようとしましたが、彼は、自分の兄弟である他の修道士たちが、その墓を「踏む所」(すなわち聖堂の床下)に埋葬することを願って亡くなりました。
彼の修道会の影響は、簡単には述べられません。それは、十一人の聖人と四人の聖女、三百人以上の福者と、さらに、四人の教皇を輩出させています。そのほかに、現在、全世界には七、二七八人の男子会員と四五、七五五人の女子会員を持つ聖ドミニコ会と、五二五人の会員、四八の修道院と学校、その他の施設が九〇といわれる聖ドミニコ宣教修道女会と、九八六人の会員、日本での学校、その他の施設が十二といわれる聖ドミニコ女子修道会とがあるからです。
聖ドミニコが説教と模範をもって大勢の人にもたらした真理の光に、少しでも近づくことができるよう祈りましよう。
C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。