イエスは、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。
🌸 第一朗読 (創世記3.9-24)
創世記
9主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
10彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
11神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
12アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
13主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
14主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
16神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
17神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
20アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 21主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。
22主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
23主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 24こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
🌸 答唱詩編 詩編90 典52 ②④
答:神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。
あなたは人に「元に戻れ」と仰せになり、
人はちりに戻される。
あなたがいのちを断たれると、
人は眠りにおちいる。【答】
だれがあなたの怒りの力を悟り、
憤りの恐ろしさを知っているのか。
残された日々を数えることを教え、
知恵に向かう心を与えてください。【答】
アレルヤ唱 典272 32
アレルヤ、アレルヤ。人はパンだけではなく、神の言葉によって生きている。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マルコ8.1-10)
マルコによる福音
1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 9およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
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🌸 分かち合い
マルコは、イエスの公生活中のクライマックスとも言うべきパンの増加の出来事を、一回ならず二回も、微妙に違う二つの伝承を、違いを修正することなく、そのまま福音書に記している。
イエスは、その後を追い、教えを聞きに来た群衆が空腹の状態にあるのを知り、「群衆がかわいそうだ。三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と言って自らパンを増やされた。イエス自身の、つまり、神の限りない慈しみを表わす奇跡と言ってよいのではないか。かつて、イスラエルの先祖は、エジプトを脱出した後、約束の地に入るまでの間、飲み物にも、食べ物にも事欠く砂漠で日々を過ごさねばならなかった。しかし、人々は、不思議な糧、マナで飢えをしのぐことができた。イエスは、そのことを意識しておられたに違いない。
しかし、この出来事は単なる過去の記念ではなく、むしろ、今を生きるための糧、さらには、世の終わりに至るまでの旅路の糧のしるしであることを、教会は悟った。そして、それが、教会の集いの中心となる、「主の晩餐」(ミサ)の原点とみなした。主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを唱え、弟子に与えて仰せになった。
「これはわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。パウロは、「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とつけ加えている。ミサに与るたびに、感謝のうちに、この出来事の意味を深く味わおう。(S.T.)
今日、と言うか実はもう今は2月12日だが、2月11日はアルペ神父様の列福のためのミサは行われたのだろうか。
ぼくは、日本の方向で、しばらく行方不明だった警察官の友人の居所が分かり、また親友と充実した長電話ができ、生活は苦しいが、よい日だった。
霊操でイグナチオ・デ・ロヨラが言う原因なしの慰めと言ってよいか厳密にはわからないが、
神道・仏教・キリスト教、そしてきっとイスラム教にも、無神論者や信仰を持たない人々にもそういうものってあると思う。
まあ、当たり前か。