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教皇の意向:子を失った親 (11月)

福者ペトロ岐部司祭と187殉教者

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福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者 (記念) (一六〇三~一六三九)

 カトリック教会では殉教者を列福、列聖する時に人数が多い場合は、その中で幾人かを代表者として選び、列聖、または列福し、信者たちに模範と取り次ぎ者として公式に宣言します。

 日本の場合は、一番詳細な殉教者名簿によると(島原の女性と子どもたち三万人を除いて)、約四千人ぐらい数えられていますが、それ以上いたことは確かです。その大勢の殉教者の中で、十九世紀には長崎の二十六聖人、二〇五人の福者、二十世紀には聖トマス西とその十五人の同志がいました。また二人の聖アウグスチノ修道会の修道者が列福されました。けれども、殉教者は四つの教区だけに属していたのです。しかしできる限りたくさんの教区から、その殉教者が列福または列聖されるように要望があったので、大変な尽力により一八八人の殉教者のリストが作られ、二〇〇八年に荘厳に列福されました。結果として日本の十教区が自分の殉教者を祝うことができます。

 ここにそのリストについて簡単に述べたいと思います。福者の多くは(五人を除いて)一般信徒でした。その中で、十四組の夫婦、同じ家族十三人と、少なくとも六十人の女性、二十歳以下が三十三人、五歳以下が十八人、また高齢者(六十歳から八十歳まで)も含まれています。そして二人の身体障害者がいます。中には武士や農民、庄屋、奉公人もいます。

 殉教に至る拷問には、斬首、火あぶり、穴吊り、温泉の熱湯を浴びせるなどいろいろありました。多くの殉教のエピソードの中でも五十三人の米沢の殉教者たちが、旗と十字架を掲げて行列を作り、殉教の場所まで行ったことは特筆すべきことです。

 前述のように福者を決める時には、特に一般信徒が選ばれましたが、それ以外に三人の同祭について、特に注目すべきです。ジュリアン中浦は、天正遣欧少年使節の中の一人でした。

 一六〇八年、長崎でもう二人の日本人と共に、三十九歳の時に司祭になりました。徳川家康がすべての司祭を国外追放した時に、中浦神父は隠れていたために残ることができました。そうして十八年の間、いろいろな所で迫害されている信者たちが信仰を保つように励まし続けました。

 神父があまりの苦しみと疲れによって歩けなくなった時には、信者たちが村から村へ運びました。けれども一六三二年、小倉で逮捕されて長崎で運ばれ、西坂で穴吊りにより殉教しました。

 金鍔(きんつば)と呼ばれていたトマス次兵衛、聖アウグスチノ会の神父は徳川の役人たちの頭痛の種になっていました。それは、次兵衛神父がいろいろ変装して、役人のそばを通っても見破られず、長い年月捕らえることができなかったからです。

 金鍔の刀を持っている武士に変装していたことから、あだ名を金鍔とつけられた彼は、奉行所の中でも、牢屋の中でも、将軍のいる江戸城に入っても役人たちに気づかれずに姿を消していました。ですから魔術を使っているという評判が広がって、人びとの話題になりました。一六三六年、ついに長崎で捕らえられ、一年間牢屋の中で毎日拷問を受けました。穴吊りにされましたが、宿を金鍔に貸した三人の男性と一人の女性と共に信仰を捨てなかったので、再び穴吊りの拷問を受け、天国に召されました。

 ペトロ岐部は、神から頂いた召し出しに対して、忠実で素晴らしい模範を示しました。十三歳の時に神学校に入って、卒業後イエズス会に入ることを願いましたが、望みは叶いませんでした。でもその日がいつか来ることを信じて、誓願文を書き、懐にしまい、待ち続けていました。

 最初は同宿として、司祭たちの布教を一生懸命に手伝いました。一六一四年、日本からほかの宣教師と共に追放され、マカオに着きました。ここでもまた、司祭になることを断られたので、岐部はローマまで一人で行き、そこでイエズス会に入ることを決心しました。まず、インドのゴアまで行きましたが、またも断られてしまいました。そして、シルクロードを経て、一人で現在のパキスタン、イラン、イラクなどに行きましたが、途中でひどい足の傷のために倒れ、同じ道を行く隊商に助けられました。やっとの思いで、日本人で最初の巡礼者として、聖地エルサレムに着きました。しかし、目的地のローマははるかかなたでした。一六二三年、ついにイエズス会の本部の門を叩きました。

 そこまで行くには、六年の年月が必要だったのです。イエズス会の総長、Aquaviva は、これほどの強い決心を持っている岐部を喜んで受け入れました(イエズス会に入る誓願をしてから十六年後)。岐部神父は感謝の印として、Aquaviva の名前を日本語に訳して(生きる水、活水、カスイ)、自分の名前をペトロ岐部カスイとしました。

 祖国を出てから十一年後、拷問と死刑だけが待っている日本に岐部神父はマカオ経由で帰ろうとしました。鎖国政策のため、マカオからも、またマニラからも日本に帰ることは不可能だったので、タイに行くことを試み、船に乗りましたが、オランダ人に捕まり、知らない港で下ろされてしまいました。

 そこからタイに行き、それでも二年間日本への帰国をあきらめきれず、もう一度マニラに帰って、松田神父と共に小さな船を造ります。木材がずいぶん腐食していたのに出発して、鹿児島付近の海岸で船が沈没しました。漁民に助けられ、日本を出て十六年後にやっとの思いで日本に帰ることができたのでした。

 その後の活動については、詳しい記録は少ないのですが、東北地方で(そこはたくさんの信者が迫害から逃げてきた)八年間働いていたようです。逮捕された時の尋問の書類が今でも残されています。徳川家光自身が、その尋問をしたこともあります。穴吊りにされていた時に、同じ拷問を受けていた他の信者を励ましながら殉教を全うしました。

C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。

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