聖マリアの奉献
集会祈願
いつくしみ深い神よ、おとめマリアの奉献を記念して祈ります。聖マリアの取り次ぎを願うわたしたちが、豊かな恵みといのちにあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
???? 第一朗読 (黙示録11.4-12)
4〔わたしヨハネはこう告げられた。〕この二人の証人とは、地上の主の御前に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台である。 5この二人に害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。この二人に害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。 6彼らには、預言をしている間ずっと雨が降らないように天を閉じる力がある。また、水を血に変える力があって、望みのままに何度でも、あらゆる災いを地に及ぼすことができる。 7二人がその証しを終えると、一匹の獣が、底なしの淵から上って来て彼らと戦って勝ち、二人を殺してしまう。 8彼らの死体は、たとえてソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。 9さまざまの民族、種族、言葉の違う民、国民に属する人々は、三日半の間、彼らの死体を眺め、それを墓に葬ることは許さないであろう。 10地上の人々は、彼らのことで大いに喜び、贈り物をやり取りするであろう。この二人の預言者は、地上の人々を苦しめたからである。 11三日半たって、命の息が神から出て、この二人に入った。彼らが立ち上がると、これを見た人々は大いに恐れた。 12二人は、天から大きな声があって、「ここに上って来い」と言うのを聞いた。そして雲に乗って天に上った。彼らの敵もそれを見た。
???? 答唱詩編 詩編18 典64 ①⑥
答 神はわたしを救われる。
そのいつくしみをたたえよう。
神はわたしのとりで、わたしの岩、
わたしの救い、身を避ける岩、
わたしの神、わたしのたて、
わたしのやぐら、救いの力。 【答】
わたしを支える岩。
わたしを救われる神に栄光と賛美。
神よ、諸国の民の中であなたをたたえ、
わたしはあなたの名を喜び歌う。 【答】
アレルヤ唱 典269 ㉙
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった。アレルヤ、アレルヤ。
???? 福音朗読 (ルカ20.27-40)
ルカによる福音
27〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
奉納祈願
救いの源である父よ、おとめマリアからお生まれになった御子イエスが、わたしたちの罪を取り除き、この供えものをみ心にかなうものとしてくださいますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
喜びの源である神よ、救いの秘跡に強められて祈ります。御一人子の母マリアを祝ったわたしたちが恵みに満たされ、救いの喜びを味わうことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
???? 分かち合い
今日の福音は、復活についてのサドカイ派の議論に対して、主イエスは論争しながら論証をだして結論したという内容を語っています。
サドカイ派は当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループで、「モーセ五書」のみを正典と考えていて、「モーセ五書」が復活について何も書いていなかったから、復活を認めなかったという人々です。旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章と今日読まれた第一朗読マカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています)。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に期待するものなど何もなかったらしいです。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
一方の主イエスは、貧しい人々・苦しむ人々とともに生きてきまして、この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるとき、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることを宣べ伝えます。主イエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは完全に「神によって生きる」ことなのです。
出エジプトの出来事を思い起こさせながら、主イエスは、イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今もこの民を決して見捨てていないということを強調しているのです。この神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神です。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。 きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけです。