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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間二十四主日(9/17)

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七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

マタイ18:22
集会祈願

 愛の源である神よ、分裂と争いに悩む世界に、あなたはゆるしと和解の道を示してくださいました。わたしたちがキリストに従う者として互いに受け入れ合い、神の愛を現していくことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (シラ27:30-28:7)

30憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。
罪人にはこの両方が付きまとう。
1復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
2隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、
願い求めるとき、お前の罪は赦される。
3人が互いに怒りを抱き合っていながら、
どうして主からいやしを期待できようか。
4自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、
どうして自分の罪の赦しを願いえようか。
5弱い人間にすぎない者が、
憤りを抱き続けるならば、
いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。
6自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
7掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、
他人のおちどには寛容であれ。

🌸 答唱詩編 詩編103 典93①②③

 心を尽くして神をたたえ、
  すべての恵みをこころに止めよう。

神はわたしの罪をゆるし、
痛みをいやされる。
わたしのいのちを危機から救い、
いつくしみ深く祝福される。【答】

神は恵み豊かに、あわれみ深く、
怒るにおそく、いつくしみ深い。
父が子どもをいつくしむように、
神の愛は、神をおそれる人の上にある。【答】

天が地より高いように、
いつくしみは神をおそれる人の上にある。
東と西が果てしなく遠いように、
神はわたしたちを罪から引き離される。【答】

🌸 第二朗読 (ローマ14:7-9)

 7〔みなさん、〕わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

アレルヤ唱 典273 24A

 アレルヤ、アレルヤ。新しいおきてをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたをあいしたように。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ18:21-35)

マタイによる福音

 21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

奉納祈願

 いつくしみ豊かな神よ、この供えものをまことの和解と一致のしるしとしてください。互いにゆるし合う心をもって、主の食卓を囲むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

 神よ、今あずかった恵みに力づけられて祈ります。あなたのあわれみによって生かされていることを思い、日々、感謝のうちに歩むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 先週に続いてマタイ福音書から共同体(教会)についての教えを集めた18章が読まれましたが、今日は、その結びの部分です。「ゆるし」ということがテーマです。赦しを強調するイエスにペトロが「兄弟を何回赦すべきか」と問うたとき、イエスは、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と言われます。ペトロだけでなく、わたしたちも、当然のように、「なぜ、そこまで赦さなければならないのですか」と問いたくなるのではないでしょうか。旧約聖書の中に、神の限りない愛、人を赦す神の愛を語る言葉があります。たとえば、今日の答唱詩編(103編)にあったように、「神は恵み豊かに、憐れみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い。・・・東と西が果てしなく遠いように、神はわたしたちを罪から引き離される」と。しかし、神様の愛はそれほど大きくても、人間はそこまではできないでしょう、限度があるでしょう、とわたしたちはどこかで考えているのではないでしょうか。

 よく読むと、このたとえには、二つの面があるように思われます。一つは、王様に決して返しきれないような莫大な借金(1万タラントン)をしていた家来。彼は、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じられた」にもかかわらず、しきりに願った結果、王様からすべて帳消しにしてもらいます。しかし、同じ家来は、自分に対して比べ物にならないほど少ない借金(百デナリオ)をした仲間が、どれほど返済の猶予を願っても聞き入れようとせず、ついに、牢にぶち込んだ人間。その二つの態度が一人の人間の中に同居しているとは、本人もそれに気づいていないのです。旧約聖書に出てくるダビデ王の話を覚えておられるでしょうか。サウルに代わって王とされた若いダビデは、戦争のさなか、宮廷にこもって、ふと目にした美しい女性を呼び寄せ、自分のものとし、彼女の主人である家来を最前線に送り込んで戦死させます。預言者ナタンの心に響く言葉を聞いて、はじめてダビデは自分の犯した罪の大きさに気づかされます。人間は、とかく自分自身のこと、特に、自分の犯した過ちに気づかないで過ごしているのです。

 イエスのたとえ話には、よく二人の対照的な人物を取り上げた話が出てきます。「放蕩息子のたとえ」の兄と弟、税吏とファリサイ派の人の話、罪の女とファリサイ派の男シモンの話など。自分が大きな罪を赦されていながら、そのことに気づかず、他人を上からの目線で眺め、断罪する人間の二面性を表すたとえです。自分が実は、最も赦しを必要としている人間であるにも拘わらず、それに気づかず、他人を裁いて、自分の罪の赦しを求めようとしない人間。そんな人間の罪深さを、イエスは何とかして悟らせようと、そして、そのような罪さえも赦そうとされる神の限りない愛、赦しの愛を、教えようと、こうした大げさとも思える話をされたのではないでしょうか。しかも、ただ、口で教えるだけでなく、まさに、そのような神の愛を、ご自分のすべてをお捧げになる、あの苦しみと十字架上の死を通して、あますところなく捧げる赦しの行いによってお示しになったのではないでしょうか。自分の醜さに気づき、それを正直に認める心を願いながら、神様の限りない愛、赦しの愛に少しでもあやかることができるようお祈りいたしましょう。(S.T.)

🌸 村山兵衛助祭による分かち合い

 「七回どころか七の七十倍までゆるしなさい」――この言葉に驚かない人がいるでしょうか。どんな人にも我慢の限界というものがあります。それを超えろとでもいうかのように、イエスは「限界なきゆるし」を語るのです。ですが、どれだけ十分に説得しようとしたところで、「ゆるせない罪」や「こらえきれない悲しみや怒り」を簡単に解決することはできないです。七の七十倍まで謝ってもらっても相手をゆるせないことがあり、七の七十倍まで謝ってもゆるしてもらえないような失敗や傷を与えてしまっていることがあるからです。しかし諦めてはならないのです。ゆるしは恵みだからです。

 ゆるしは、とても難しいものです。理にかなわないことを受けいれるのでは、私たちの感情は狂ってしまいます。正義感の強い人や同情の深い人ほど、ゆるすことの痛みと悔しさを知っています。だからこそ、「ひどい人間をゆるすことのできない自分」に嘆くのです。ゆるすことは耐えがたい、でもゆるさずにいることだって耐えがたい。

 多くの人の悩みは、「誰かに傷つけられた苦痛から自由になりたい」ということと、「私たちを傷つけた人をゆるすことはとてもむずかしい」ということです。しかし、神の命令だから、またゆるさずにいることは耐えがたいからと思って、「私たちはゆるさなければならない」という義務感にコントロールされます。しかし、心は正直です。人を心からゆるすためには、義務感だけでは不十分です。ゆるしあえること、仲直りできること、それは神の恵みなのです。

 私たちが「他人をゆるせない自分」に苦悩するのは、ゆるしのほんとうの源が私たち自身のうちにないことによります。ゆるすことが自分の力によるのであれば、成功の手柄も失敗の責任も自分のものとなります。「自分で我慢し頑張らなくては」と言いきかせておいて、「自分にはできない」と嘆くのでは、まさに堂々巡りというものです。この堂々巡りから脱けでるためには、イエスご自身に私たちの人生を語りなおしていただくほかないのだと思います。

 今日の福音でイエスは、わざわざ「よい見本」ではなく、「悪い見本」をたとえとして紹介します。1万タラントン(3600億円)の借金をゆるされたのに100デナリオン(60万円)の貸金をゆるさなかった家来のたとえです。ここで問題となっているのは、「私たちがゆるすように求められているよりはるかにたくさんのことを、私たちはすでにゆるされている」ということです。

 イエスのたとえのメッセージは、「私はゆるさなければならない」と考える前に、「どれほど神が私をゆるしてくださっているか」を信じ、思いめぐらすことです。我慢の限界に悩むとき、私たちは、ゆるしという神の無限の恵みに目を向けるよう導かれます。神は、私たちの心の果てしない弱さと狭さと頼りなさを、十字架上で、ずっとゆるし続けておられるのです。その神のいつくしみに対して、自分の心を開く希望を諦めないことこそ、キリストの心で人をゆるすことなのだと思います。

 ダンスの先生が初心者にするアドヴァイスがあります。「下を見ないでください。私の目から目をそらさず、私のリードについてきてください」。ぎこちない自分の動きやミス・ステップに耐え切れず悩み、また他人のミス・ステップに躓くことは一生避けられません。ときに避けられない分裂や争いに対して、信仰のステップを学ぶことはとても重要です。

  これは教会共同体においても言えることだと思います。私たちが和解と癒しを求めるにも増して、神は私たちが、豊かないのちの交わりのダンスに加わるよう望んでおられます。私たちが人をゆるせるようになることは、自分の我慢や努力の成功によるのではありません。純粋に、神さまの恵みによるのです。自分や他人の弱くて頼りない足元ではなく、イエスを見つめること、このイエスのリードを信じて、少しずつ聖霊の導きに自分を委ねていくことなのだと、福音書は語っています。そして、神の恵みは、人をとおして運ばれます。互いのために祈りましょう。お互いの痛みと傷を、祈りによって補いあいましょう。あとは神さまが必ず何とかしてくださいます。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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