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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間二十三水曜日(9月9)

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貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。

ルカ6:20
集会祈願

???? 第一朗読 (一コリント7:25-31)

 25〔みなさん、〕未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 26今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 27妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。 28しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。 29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、 30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、 31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

???? 答唱詩編 詩編45 典36④⑤

アレルヤ唱 典271 ⑧

???? 福音朗読 (ルカ6:20-26)

ルカによる福音

 20〔そのとき、〕イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 21今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である、
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

???? 分かち合い

 今日のルカ福音書は有名なところですが、主イエスが四つの幸いと四つの不幸を述べている箇所です。この箇所はマタイによる福音書における「山上の説教」、特に「真福八端」と似ていますが、ここで、福音記者ルカは幸いである道と不幸である道をはっきりと分けています。それは神に信頼する人々、またその結果と人間または物に信頼する人々、またその結果を分けられているということです。

 ルカ福音書で、主イエスは、人間を幸いへと導きたい神の願いを明らかにしています。神は、貧しく抑圧された人々のそばにおられ、虐げる者から彼らを解放してくださるというメッセージです。

 「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。「幸いな人」という語で始め、そうなるための「条件」を示し、「約束」を交わすことによって締めくくっています。幸いである要因は、「貧しい」「飢えている」「泣いている」そして「憎まれる」「迫害される」などの必要条件ではなく、そのあとに続く、神から与えられた信仰によって迎え入れられるという約束の言葉にあります。私たちは、神から与えられるものに対して自分を開くこと、新しい世界、主イエスが告げた「神の国」に入ることが難しい状態から出発します。それは自動的な構造ではなく、主に従って生きるという歩みなのです。その歩みを通して、困難で苦悩に満ちた現実を新たな視点から捉え、起こる回心に応じて経験されるものです。回心をしなければ、神の恵みに感謝してそれを生きるのでなければ、人は幸いではありませんと思います。

 「貧しい人」という言葉は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。ルカ福音書4章にも、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)という主イエスの使命に対する言葉がありますが、この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」、そして今日の福音書で語られた「飢えている人」「泣いている人」「憎まれている人」迫害されている人」など、さまざまな理由で小さくなっている人すべてを含む言葉です。福音書に登場する病人や障害者、悪霊に取りつかれた人、女性や子どもなども、ある意味で皆、「貧しい人」です。また、ルカ19章に登場するザアカイのような徴税人も、たとえ金持ちであったとしても社会的に排除されていたという意味では「貧しい人」だと言えるのです。

 さて、なぜ「貧しい人」は幸いなのかというと、「神の国はその人のもの」だからです。すなわち、神は決して貧しい人を見捨てていない、そして神は救い主として貧しい人を救いに来てくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」「天には大きな報いがある」という約束も神がそのようにしてくださるということを意味しています。

 つまり、「貧しい人」とは経済的な貧しい人という意味だけではなく、神に信頼する人、主イエスを信じる人、回心して自分のことを捨て十字架に担い主イエスに従っている人という意味も確かにあります。このような人は主イエスの約束を受け入れ、幸いな人となるのです。

 逆だったら、すなわち神に信頼する代わりに人または物に信頼するならば、その人は不幸なのだという風に考えられています。神様抜きで、すべてに満ち足りてしまっているとしたら、主の約束を得ることができません。そして、この世界の中で貧しい人、苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまいます。

 どうか聖母マリアのお助けによって、私たちがいつくしみ深い神に完全に自分自身をゆだねることができますようにお祈りしたいと思います。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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