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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間二十三主日(9/10)

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愛は隣人に悪を行いません。

ローマ13:10
集会祈願

 わたしたちを呼び集められた神よ、あなたはすべての人が兄弟姉妹として生き、一つの民となることを望んでおられます。キリストの名のもとに集うわたしたちが、互いの成長を願い、ともに歩み続けることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (エゼキエル33:7-9)

 7〔主の言葉がわたしに臨んだ。〕人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。 8わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。 9しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。

🌸 答唱詩編 詩編95 典35①③④

答 神に向かって喜び歌い、
  感謝の歌をささげよう。

神に向かって喜びうたい。
救いの岩に声をあげよう。
感謝に満ちてみ前に進み、
楽の音に合わせ神をたたえよう。【答】

海は神のもの、神に造られたもの。
陸も神のもの神に形造られたもの。
実を低くして伏し拝もう、
わたしたちを造られた神の前に【答】

神は、わたしたちにの神。
わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。
きょう、神の声を聞くなら、
神に心を閉じてはならない。【答】

🌸 第二朗読 (ローマ13:8-10)

 8〔みなさん、〕互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

アレルヤ唱 典270 23A

 アレルヤ、アレルヤ。神はキリストのうちに世をご自分に和解させ、和解のことばをわたしたちにゆだねられた。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ18:15-20)

マタイによる福音

 15〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

奉納祈願

 いつくしみ深い父よ、一つの食卓を囲んで祈ります。キリストの奉献に心を合わせるわたしたちに、愛がすべてをまっとうすることを深く悟らせてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

 力強く民を導かれる神よ、命の糧に強められて祈ります。教会がたえずあなたに向かって回心し、まことの愛を世に示す家族となりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 少し前の日曜日の福音で、主イエスが弟子を代表するペトロの上に教会を建てると約束された個所が読まれました。今日読まれたマタイ18章では、その教会、あるいは、キリストを信じる人々が作ろうとする共同体についてのイエスの教えが取り上げられている。

 主イエスの招きに応えて集まった人々の共同体は、もとより完全ではないし、弱さや罪深さをもった人々の集団です。たとえ善意からであっても、人を傷つけたり、つまずかせたりすることもあります。イエスは、そうした兄弟を繰り返し赦すことを教えられましたが、同時に、兄弟があやまちを認め、立ち直ること、兄弟を諫めることを勧められました。罪を犯した人間を断罪するのではなく、その前に、救いの手を差し伸べるように勧められたのです。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と。これは勇気のいることです。相手がどう思うか、どんな反応を示すか、つい、遠慮してしまいがちです。しかし、相手に対して、尊敬の心が少しでもあるなら、そうした行動をとることができるでしょう。そして、それを聞きいれなければ、二人か三人のところに連れて行きなさい、とあります。あくまで、その人の回心を願い、和解の恵みを願うのです。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と主は言われます。主は、兄弟に対して無関心ではなく、また、一方的に決めつけるのでもなく、兄弟の言動に対し、その救いに対して、責任をもって行動することを求められるのです。

 第一朗読のエゼキエル預言者が語っていることもそれに通じます。主は預言者に言われます、「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う」と。

 とかく、規則一辺倒で、法律違反の行為にのみ関心を向け、相手の人格に対する尊敬を持とうとしない傾向、これはわたしたちと決して無縁ではありません。第二朗読のパウロの手紙で、隣人愛、互いに愛し合うことが強調されているのも、こうした人間に共通した傾向をいさめるものと言ってよいでしょう。

 福音の言葉は続きます。一つは、教会に与えられた大きな権能のことです。「あなたがたが地上でつなぐことは天上でも繋がれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。先日の福音でペトロに対して言われた言葉です。教会に、また、使徒の後継者たちに与えられる大きな権能です。人間に対する神様の限りない信頼の言葉と言ってよいでしょう。しかし、教会の歴史を振り返ると、教会の指導者たちが犯した大きな過ちのことも忘れることはできません。

 そうしたあやまちを免れるためにも、その次に記された言葉を心に刻まなければなりません。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
教会は、主がそこにおられる、祝福されたところです。決して、人間的な思いだけで、人々が群れを作った集団ではありません。そこに主がおられるからこそ、存在する意味があり、価値があるのです。その中心になるのが祈りです。祈らなくなった教会は、もはや教会ではありません。フランシスコ教皇が口を酸っぱくして強調されることです。どうか、主が、わたしたちの共同体、細江教会、広島教区、そして日本の教会が、主がそこにおられることを信じ祈る共同体として成長してゆくことができるよう祈りましょう。(S.T.)

🌸 他の分かち合い

 皆さんに聞いてみたいことがありますが、もしこの質問には嫌だったらわたしをゆるしてください。一ヶ月一回ゆるしの秘跡を受ける方がいらっしゃいますか。二ヶ月一回は。大体私たちはたまたまゆるしの秘跡を受けるでしょう。年一回しかゆるしの秘跡を受けない方もいらっしゃるかもしれません。やはり、罪の告白に行くことは現代的なことには思えないので、難しく、最初はかなり苦労するかもしれません。けれどもゆるしの秘跡は、私たちが人生の中で繰り返し受けることができる、大いなるめぐみの一つです。それは本当に魂を新たにし、神様と他者と自分自身との和解になり、愛のうちにそれらを受け入れるのです。確かに、神様は告解を聴く司祭を通して常に慈しみとあわれみを私たちに与えてくださいます。

 初聖体を受けるとき、必ずその日の直前日にゆるしの秘跡を受けなければなりません。わたしは子供の時、ほぼ二週間に一回ゆるしの秘跡を受けました。そして、大人になってから、今まで、ほぼ毎月一回ゆるしの秘跡を受けます。やはり、人間は誰でも罪を犯す可能性があります。はっきりと言うならば、すべての人々は罪人です。私たちの教皇フランシスコはインタビューされた時に、教皇はご自分自身が誰だと思われますかと聞かれると、わたしは罪人ですと答えました。

 確かに、ヨハネは自分の手紙の中に次のように書いてあります。「自分に罪が無いというなら、自らを欺くいており、真理は私たちのうちにありません」(1ヨハネ1:8)。私たちは罪人だが神様の愛によって癒され救われた者となったということを意識しているとするならば、今度他者に対して、赦しや優しさを与えることができます。

 今日の福音は、マタイによる福音書18章から取られています。そのテーマは、キリスト教共同体における兄弟姉妹としての忠告、すなわち他のキリスト者が良くない行いをした時に、どのようにその人に忠告しなければならないかということです。主イエスは、兄弟姉妹が自分に対して罪を犯し、危害を加えたら、その人に対して思いやりを持ち、最初に二人だけで話をして、相手の発言や行動が誤っていることを説明しなければならないと教えておられます。もし相手が聞き入れないなら、二、三人の他の人とともに、その人のもとへ話しに行くが良いという主イエスの教えです。

 ここで、重要なポイントは共同体の中でうわさや陰口をしてはいけないのです。不当な批判をしたり、兄弟姉妹をことばで「ののしったり」したら、相手の信望を傷つけてしまいます。皆さんがご存知通り、ことばも人の命を奪います。だからこそ、二人だけで話をするのは、罪を犯した人が必要以上にはずかしめられるのを避けるためです。「行って二人だけのところで忠告しなさい」ということを実行するのは難しいです。やはり愛と謙遜がなければ、それが実行できないのです。

 ここで、忘れてはいけないのは、相手を赦すこと、自分に対して罪を犯した兄弟姉妹に忠告することができるのは人間のわざではなく、神様の恵みです。兄弟姉妹としての忠告は、キリスト教共同体で行われるべき愛と交わりのしるしです。それはむしろ、奉仕し合うことです。兄弟姉妹に忠告することは奉仕です。

 つまり、申し上げたいことは二つです。それは、私たちは皆罪人であるということと、神様は全ての人をあわれんでくださるということです。この二つの重要なことに基づいて、このミサの中で、神様のゆるしを求めながら、兄弟姉妹に奉仕することができますよう、この恵みを願い続けたいと思います。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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