Generic filters
Exact matches only
Filter by content type
Comments
Attachments

教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間二十水曜日(8/19)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

マタイ20:13
集会祈願

???? 第一朗読 (エゼキエル34:1-11)

  1主の言葉がわたしに臨んだ。 2「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。 3お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。 4お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。 5彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。 6わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。 7それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。 8わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。 9それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。 10主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
 11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。

???? 答唱詩編 詩編23 典123①④

アレルヤ唱 典271 ⑯

???? 福音朗読 (マタイ20:1-16)

マタイによる福音

 1〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

奉納祈願

拝領祈願

???? 分かち合い

 マタイ福音書には、天の国についてのたとえがたくさんありますが、受難を前にしたイエスの説教の中にもたとえが出てきます。なぜそれほど多くのたとえを使って話されたのでしょうか。それは、イエスが「神の国」というものを何としても人々に訴えたかったからでしょう。そして、それが人間の常識や理屈にこだわる限り、決して理解できない、奥深い真理、また、神秘だったからではないでしょうか。

 今日の個所を読むと、つい、建設現場で働くために仕事を求めて朝から並ぶ日雇い労働者のことを思い出します。イエスの時代にも、そのように仕事を求める人々がいたのでしょうか。

 このたとえを文字通り受け取ると、様々な問題が見つかります。そもそも、朝一番から働いた人と、午後から働いた人に同じ額を払うのは不正ではないか。そして、朝から何回も労働者を雇いに広場に出かける雇い主などどこにいるだろうか。また、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」という発言はあまりに横柄ではないか、など。

 しかし、たとえば、洗礼の恵みを受けたときのことを考えると、ある人は幼児洗礼、ある人は成人洗礼、また、ある人は臨終洗礼です。時期は異なっても、いただく恵みは同じです。人生にしても、ある人は短命、他の人は長寿、ある人は健康な一生、他の人は生涯病気と戦う。しかし、いただいた命の恵みは同じです。人と比べてではなく、このありのままの自分を受け入れてくださった神の愛、そして、そこに始まる「神の国」の現実を読み取るべきではないでしょうか。(S.T)

FacebookTwitterEmailLinePrintFriendly

御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

コメントする