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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第十四主日(A年)

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疲れた者、だれでもわたしのもとに来なさい。

マタイ11:28
集会祈願

天地の主である父よ、御子キリストは、重荷を負う者にいつも安らぎを与えてくださいます。ここに集う私たちが、争いや悩みを抱える世界に、キリストの平和をもたらすものとなりますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ゼカリヤ9:9-10)

ゼカリヤの預言

〔主は言われる。〕
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。

🌸 答唱詩編 詩編145 典18④⑤⑥

答:いのちあるすべてのものに、
  主は食物を恵まれる。

あなたは恵みと憐みに満ち、
怒るに遅く、慈しみ深い。
その恵みはすべてのものに及び、
慈しみは
造られたすべてのもののうえにある。 【答】

神よ、造られたすべてのものはあなたをたたえ、
あなたに従う人は感謝して歌う。
彼らはあなたの国の栄光を語り、
力あるあなたのわざを告げる。 【答】

あなたの国は永遠の国。
あなたの支配は世々に及ぶ。
神は悩みのうちにある者を支え、
倒れる者をすべて立たせてくださる。 【答】

🌸 第二朗読 (ローマ8:9、11-13)

使徒パウロのローマの教会への手紙

 〔皆さん、〕神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

アレルヤ唱 典272(14A)

アレルヤ、アレルヤ。天と地の主である父はたたえられますように。あなたは神の国のことを小さい人々に現わしてくださった。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ11:25-30)

マタイによる福音

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

奉納祈願

いのちあるものに食物を恵まれる神よ、この供え物と共に、私たちの祈りを受け入れてください。主キリストの体をいただく私たちが、高ぶることのない主の心にもあずかることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

天の父よ、いただいた恵みに感謝して祈ります。私たちが、キリストの弟子としてともに軛を担い、自分を低くして人々のために尽くすことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 聖書には神への賛美の歌がたくさんある。多くは、創造の業、歴史の中での大いなる御業をたたえる歌。今日のイエスの賛美の言葉は独特。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼児のような者にお示しになりました」とある。「これらのこと」が何を示すかはっきりしないが、それまでイエスが語ったこと、イエスがなさった不思議、そのすべてを指すと考えてよいだろう。
 「知恵ある者や賢い者」はユダヤ人の中での学者・聖書に詳しい律法学者のこと、「幼児のような者」とは、幼児の心を失わずにいる人々のことだろうか。幼稚園の子どもたちを見ていると、大人が見過ごしてしまう草花の中にうごめく小さな虫を見つけては歓喜する。大人は、つい、広い視野で物事を見るが、子どもは目の前の世界に集中する。大人がいつも追われる時間の観念や、スペースの感覚は、子どもにはない。「今、ここ」がすべて。大人になると、子どもの時の見方をだれもどこかに置き忘れてしまうが、『星の王子様』の著者は、「大人は皆、かつて子どもだった」とまえがきに書いている。
 「神の国」のことを理解するために、幼児の心を取り戻さねばならない。大人は自分の得た知識、経験、技術で自分が何者かであることを誇りとする。神の世界を見るためには、一旦、それらをすべて棚上げし、新しいこと、知らないことに開かれた、幼児の心をもった、貧しい人、小さな人にならなければならないのではないか。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これだけ聞くと、ゴールに着いて、「お疲れ様」、と言われたように聞こえる。果たして、そうだろうか。むしろ、いつ終わるとも知れない長い旅路の途中で、一休みするように、との勧めではないか。また、立ち上がって歩き続ける力をいただくために。 イエスの話を聞く当時の人々にとって、人生の重荷とは何か。それは、日々担う、生きるための苦労に加えて、彼ら特有の重荷―守るべき律法の重荷があった。
 そのような人々に対して、イエスは言われる、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と。イエスは、重荷は一切なくなるとは言わない。むしろ、わたしの軛を負いなさい、と言う。ただでさえ重い荷がもっと重くなるのだろうか。そうではない。イエスが負うように言われる軛は、愛するという、ただ一つの軛。自分を無意識のうちに縛っている様々な「務め」という軛を下ろし、自分から出て人々の世界に身を置き、自分を忘れ、人々が負う荷を共に担うこと。しかも、イエスとともに負う軛。イエスが愛された人の荷をイエスとともに担うこと。それが自分を解放し、休ませてくれる、真の憩いとなり、歩み続ける力となるのでは。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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