このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です
集会祈願
🌸 第一朗読 (エフェソ2:1-10)
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
1〔皆さん、〕あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。 3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
🌸 答唱詩編 詩編100 典172 ②④
アレルヤ唱 典272 34
🌸 福音朗読 (ルカ12:13-21)
ルカによる福音
13〔そのとき、群衆の一人がイエスに言った。〕「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
「有り余るほどのほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。ルカだけが記している、この「愚かな金持ち」のたとえの話は、経済的に豊かになった現代人に大きな問いを投げかけている。
人間が生きるために、衣食住をはじめとし、ものを持つことは不可欠だが、度を過ぎると、持つものに自分が逆に支配される危険をはらんでいる。その根源的な問題に取り組んだフランスの哲学者、ガブリエル・マルセルは、その思想の根本となる著作を『存在と所有』(Ētre et avoir)とした。彼によれば、現代文化の大きな危機は、人々がものを「所有する」ことにあまりにとらわれていることにある、とする。その結果、物だけでなく、他者をもものとみなし、他者との人格的な交わりをおろそかにし、自分中心で、本来の自由を失い、人間として貧しくなることからくる、としている。
以前、フィリピンを訪問し、文字通り貧しい生活を強いられている子どもたちの笑顔が目に焼き付いたが、日本に戻って来て目についた子どもたちが、体格はよいが、無表情で、どこかもの悲しげな様子にショックを受けたことが忘れられない。その違いはどこからくるのか。簡単な説明は慎むべきだが、ものに縛られない人間がもつ、自由と喜びにあふれた生き方が、鍵であるように思えてならない。
はたして、信仰という、人間を本来の自由に導く恵みをいただいているわたしたちは、どんな表情をしているだろうか。(S.T.)
とにかく文民であること。
ペトロは、受難前、ルカではキリストも武器を持てと。しかし、
もう、、よい。と
ここ、ネメシェギ師の解釈が重要。
ペトロが切った「敵」の耳をイエスが癒したから「敵たち」も逆に攻めて来た。これも的確にアルペ師が書いてる。
十字架の道行であり十字架の結論ではない。let’s go.
ルカ22章35節以下について言おうとしたが舌足らずだった。しかし、まず時間をたっぷりとって聖書に向いたいしネメシェギ師やアルペ師の本も同じく、ゆっくり読みたい。さもないと現場でとんでもない過ちをしそう。
また霊操のおそらく基本の1つは不偏心。原理と基礎の文も、生も死も生きる目的から導かれる、という趣旨だと思う。生も死もキリスト!と言ったパウロと同じ。
死にたい、と、死を恐れない、というのは違う。
これは、確か、映画『ボディー・ガード』の中での台詞。
昨日は車で三十分かけて他店舗に応援に行った。冷蔵庫の温風の前の9時間はきつかったが、そこで、また小さなマリアに出会った。若くして第一子を産み三人の母だが、ゆったり微笑んでいるので本当に仕事がしやすい。また私と同じ新米の高校1年生に対しても母のように接している。私と同じ時間に入ったがあと3時間勤務と言っていた。
私の実家の地区より外国人が多いので心が解放される。
♫いま、富とか名誉ならば、いらないけど
翼が欲しい♫
かつて、こう歌っていた日本人はどこに行ってしまったのか、と思っていたがいた。
まあ、日本人や日本にこだわらないことが日本人や日本を救うだろう。
敢えて意識しなくても理解は与えられるもの。
「罪を避けること。失礼にならない。」とかつて交友関係で悩んでいる私に聴罪司祭は言った。
罪や悪を避けること。
搾取するよりは搾取される側に立つこと。
殺すより殺される側に立つこと。
いま、『霊操』は手元にないが、確か謙遜の第一段階。
先の私のコメントの最後は訂正。
搾取するとかされるとかでなく、まさに分かち合いが大切。
ただ、まさに解放の神学の問題?と言うか課題。
殺す側、殺される側でなく、まさに祈りを。
検問所で兵士に、武器は?と尋ねられたマザー・テレサが、これよ、と祈りの本を差し出したのは有名な話。(具体的にどの本か?どなたか教えてください!)
どうも今日はアンチオケの聖イグナチオに引っぱられて?!って殉教者のせいにしてはいけない。
極論に走るのは私の悪いクセ。
死と復活!!って
キリストやパウロのせいにしてはいけない?!
罪や悪を避けること、と次の文章との間に、連関はない。搾取するか搾取されるか殺すか殺されるか、この選択肢自体がおかしい。この選択を迫るのは構造的暴力。
やはり、これでよいのだ!最初に書いた通り
搾取するより搾取される側に、殺すよりは殺される側に立つこと。
全く単純、イエス・キリストを見ればわかる。
勿論、心でね。
告解室で聴罪司祭が天使の話をしてくれた時、私がビックリした顔をしているので、
いきなり白い翼の天使が目の前に現れるのではないですよ。
心の中に現れるのですよ。
と言ってくれた。