聖ヨハネ・フランシスコ・レジー 司祭
ジャン・フランソワ・レジー(仏語読み)は、1597年1月31日にフランス南部で生まれた。ベジェーのイエズス会学校を卒業した後、1616年12月7日にトゥールーズで入会した。長い中間期を含む、通常の養成を受け、1630年5月19日に司祭となった。同年の夏、ベストに倒れた人々の世話をした。一緒に働いた仲間の会員は感染して病死したが、レジー神父は難を逃れた。
最初の派遣で、パミューの学校で教鞭をとった。学校の休日には、司牧に励んだ。カトリックとカルヴァン(ユグノー)の宗教戦争は 1598年のナント令で終わるが、それまでの間、カトリック信徒は教会を捨てるように強いられ、教会は破壊され、司祭たちも殺害された。その痛手はまだ残っていた。レジーは優れた司牧才能があると評価され、1632年にモンペリエの司教のもとに送られ、カトリック信徒を教会へ呼び戻すことに協力した。
次いで、レジーは司教の依頼によって、1634 年にヴィヴィエに配属された。
本人としては、カナダの先住民のためのミッションに派遣されることを望んだが、残る人生を山岳地帯で過ごすことになり、雪に覆われた山道を町から町へと巡り歩いた。小教区に数日滞在し、集中的に司牧活動に従事した。説教はつねに簡潔であったが、心の底から湧き出す力があった。多くの告解も聴き、子どもたちに要理を教えた。彼のなかで聖霊が働いていることを、皆が感じたようである。説教や告解に追われ、食事や睡眠をとる時間さえなかった。観想家、神秘家であり、同時に実践的なセンスを生かし、スラム街や病院を訪れたり、貧しい人々に食料や衣類などを与えたりした。生活を改めた売春婦のための更生施設も開いた。
1640年の12月半ば、死が迫っていると感じ、指導していた小教区の黙想会を中断して、宣教本部に戻り、三日間の黙想と総告白をした。その直後、一人のブラザーと一緒に、中断した黙想会に送り返された。12月23日にそこを経ち、その日の夜から別の黙想会が開始することになっていた町に向かったが、雪山で道を見失い、廃屋で一夜を過ごした。24日に目的地に着き、すぐに説教し、告解を聴き、ミサを司式した。クリスマスとその翌日も、告解者の列が絶えなかった。壊れかけた窓から冬の寒風が吹き込んだので、レジーはついに肺炎で倒れた。12月30日深夜、同行のブラザーに、「主イエスと聖母マリアが夫回の門を開いてくださっている」と言い、「主よ、私の霊をみ手に委ねます」と祈りながら静かに帰天した。
レジーは教皇クレメンス 11 世によって1716年5月18日に列幅され、1737年4月5日にクレメンス 12 世によって列聖された。アールの司祭、聖ヴィアネーは、生活や活動のための大きな励ましをセレシーから受けたと言っていた。 「背信や張力の時代に、彼はキリストの施しと和解の使命を生かした。・・・彼の積極的な社会活動のなかに、キリストの福音や詳しい人々と交わるキリストの姿が具現されている。」(P-H. コルベンバッハ総長、AR XXII | 1997], 131)
AMDG
編集者:イエズス会、ロバート・キエサ神父
聖なるマリア様!その通り!アーメン!
編集者のキエサ神父は私に初めて「イエスの仲間」という言葉を教えてくれた人。
誰の仲間になるかが決定的。
特に大罪を犯したあと。
ペトロとイスカリオテのユダの違い。