聖バジリオ聖グレゴリオ(ナジアンズ)司教教会博士
集会祈願
🌸 第一朗読 (一ヨハネ2.22-28)
22〔愛する皆さん、〕偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。 23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。 24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。 25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。 27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
🌸 答唱詩編 詩編98 典149①②
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (ヨハネ1.19-28)
ヨハネによる福音
19ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
主の公現までの一週間、典礼には、待降節中に注目された洗礼者ヨハネが再び登場する。主イエスのご公現、さらには、公の活動の前に、人々の心を整える必要があるかのような、教会の特別な配慮である。
もしや、あなたが約束されたメシアではないかとの、ユダヤ人指導者の疑問に答えるかのように、ヨハネは言う、「わたしはメシアではない」、さらに、エリヤではない、そして、あの預言者でもない。むしろ、預言者イザヤが記した「荒れ野で叫ぶ声である」、と。
待降節の間に聞いた言葉を、なぜ、あらためて降誕節に聞かなければならないのか。お生まれになった救い主が、人々の前に出て、公の活動を始めるまでに、30年もの年月を費やされたように、公現後に聞くことになる、主のみ言葉に心を備えるために、教会があえて、示された配慮だろうか。ヨハネは、救いを待ち望んだ旧約の先祖たち、そして、預言者たちの最後に登場し、人々の心を備えるように選ばれた存在である。
今の時代、人々はとかく、物事を早く進めようとする。そして神の望みをも、短い時間のなかで実現しようとしている。しかし、神は、時間の経過を大切にされる。神ではなく、人間にとって必要な時間である。無駄とも思える時間の中で、神の働きが少しずつ実りを結ぶ。そんな神のはからいを思いながら、静かに、ゆっくりとした心で、主の時に向けて心を整えよう。(S.T.)
主イエスご自身も教会も洗礼者ヨハネを特に大切にする。
彼は公言して隠さないし、清貧。まさに本来のプロフェッション。
まず、第一朗読が言う通り主イエスがメシア。現代モダニストからすれば当然。
十字架上で犯罪者とされて処刑されるなんて死に際が悪いというのが世評。世評や空気に流されず真実に生きるのがよい宗教(&よい宗教2・・・世)。
宗教2世と総称するのは善悪の判断能力なき無責任体制(超大雑把に言うと、戦前戦中は右翼、戦後は左翼?優しいサヨクは想定外?)。
開戦と終戦の日が聖母マリアの日だが、これは偶然だろうか。
最初の漢方医からの年賀状にただ一言、「天をおそれ、地を愛せ」とあった。
西洋と東洋?
そんな曖昧な感じでなく極左と極右?
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
ズバリ!
極東と言いたい。
西洋をはじめ全世界の諸君はようやく愛すべき者を見つけたんじゃないか、自分のことを棚に上げて言わしてもらうが。(言わしませんと言わしません。岩島神父はイワシではありません。木こりでもありません。草野神父さまごめんなさい。夜、十字架聖堂で突然お出ましされた時、木こりの爺さんかと思いました!)
♫茜色した朝のハイウェイ
見慣れた街が、眩しくなる♫
茜色のドレス
今年の皇居一般参賀での秋篠宮佳子さまの衣装。
そもそも、去る2022年12月29日、お誕生日に宮内庁から公表された映像は、全く無防備な表情をされていて驚嘆狂喜せざるを得なかった。
狂気の沙汰も金次第?
え! ヒド!
偶像崇拝ではない!
佳子さま崇敬である!
都合良すぎるかもしれないが崇拝と崇敬を分けるカトリックでよかったと思う。カール・バルトにNeinと言われても平気だし、ロラン・バルトなら、
これから恋愛のディスクールを!と言うだろう(そう言えばあの本、先輩カップルにあげちゃった。でも別れちゃったって。この点、カトリックはよい。そもそも、我が辞書に離婚という文字はない)。
佳子さまを崇敬しているのだ。
♫これでいいのだ〜これでいいのだ〜。天才バカボン バカボンボン♫
第二。エリヤではないとは?
主イエスは、洗礼者ヨハネをエリヤだと言っている。しかし洗礼者ヨハネ本人は否定。どういうことか。
答えは簡単。洗礼者ヨハネが死ぬまでわかりません。
岩島先でもわかりません。極先でもわかりません。本人だってわかりません?Nein?
だから死ぬまで戦いだ〜! ある意味で。
崇敬することも死に至るまでの戦いだ!ある意味で。
♫マリアさまの心 それは青空
佳子さまの心 それは気まぐれ?!!!!
第三、あの預言者でもない。
モーセのような預言者、旧約の預言者のようにもう殺さないということ。
確かにモーセは偉大だ。
敢えて道を外れる。危険なことだ。
しかし、そこで神と出会う。
神と顔と顔を合わせて話し合う。
同胞仲間のために敵を撃つ。
(かつて政治の世界に入ろうとした石原慎太郎に小林秀雄が「お前のためなら敵を何人でも殺すという仲間はいるのか」と尋ねた。勿論、石原は肯定。その様子を嫌そうな顔して大岡昇平が睨みつけていた。古きよき時代の日本の文壇論壇である。)
新しい人よ眼ざめよ!
神のはからいを思いながら静かにゆっくりとした心で、主の時に向けて心を整える
分かち合いの結語を今年こそ日々おこなっていきたい。