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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第三十一金曜日(11/8)

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わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、
集会祈願

🌸 第一朗読 (フィリピ3:17~4:1)

使徒パウロのフィリピの教会への手紙

 17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
 1だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

🌸 答唱詩編 詩編122 典173 ①②

:わたしたちは神の民、そのまきばの群れ。

「神の家に行こう」と言われて、
わたしの心は喜びにはずんだ。
エルサレムよ、わたしたちは今、
お前の門のうちに立っている。 【答】

しげく連なる町、エルサレム、
すべての民の都。
そこにはイスラエルの部族、
神の民がのぼって来る。 【答】

アレルヤ唱 典268 ⑬

アレルヤ、アレルヤ。キリストのことばを守るなら、神の愛はその人のうちに全うされる。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ルカ16:1-8)

ルカによる福音

 1〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 一連の「あわれみのたとえ」に続いて、ルカは「不正な管理人のたとえ」を記す。このたとえは、前のたとえのように、ファリサイ派の人々や律法学者に向けられた話ではなく、むしろ、弟子たちに対して語られたもの。
 この話を読むと、いつも戸惑いを感じさせられる。イエスはどうして不正な管理人を引き合いに出して、こんな話をされるのかと。管理人の行動自体も問題だが、それ以上に、主人が「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」という言葉につまずく人もいるだろう。
 イエスは、こうした人々の意表をつくような話をして、人々の眠った心を目覚めさせたり、思ってもみなかった見方に気づかせたりなさる。このたとえは、まさに、この世の現実をどう生き抜くかという話だが、それが目指しているのは、この世ではなく、神の国の現実、あるいは、信仰生活をどう生きるかということではないか。たとえに出た抜け目のない管理人のように、信仰という大きな恵みを与えられた弟子、また、信仰者は、どれだけ、懸命に、必死に生きているか、ということ。
 イエスの弟子たちと、わたしたちの違いは、その間に、2000年という時の経過があるだけでなく、その間に、無数の信仰者が生き、聖人が生まれたということ。聖人たちは、皆、与えられた現実の中で、必死に、神の恵みに応えられた。それは、わたしたちにとって、大きな支え、模範、刺激である。聖人の生きた現実は、わたしたちが生きる現実と決して同じではない。わたしが置かれた現実の中で、わたしにしかできない生き方を求めて、日々生きること、それが聖性への道ではないか。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

8 comments

  1. 小暮・トーマス・ボニー師の(鷗外・漱石・龍之介!って感じ?)最終誓願ミサでのデ・ルカ師の説教について
    サウロ・パウロの回心、は
    サウロの回心・パウロの出会い
    の方が適切でしょうか?

    • 管区長はパウロの回心について全く言ってないが、日本への派遣の呼びかかけを、その場に何人も人がいたのに、管区長だけが聴いたのが、パウロとキリストとの出会いのようだと思ったのです。

  2. つい分かち合いの結語にやられて書きまくった!
    合掌。

  3. 岸田総理が訪韓されるそうだ。
    見事だ。勿論、まだ結果は出てないが。

    女性と政治に弱いというのは、自分の中にロトの妻がいる、ということだ。
    思えば、キリストの言葉は、我が心の内なるロトの妻との訣別を促す。

    死人の埋葬は死人たちに、、。
    鋤に手をかけてから、。。
    そして、カエサルのものはカエサルヘ。

    神へ!

  4. 麻生太郎氏は無事帰国した。
    実は結構悪口言ってた上に、このサイトに書いた自分の文章が目の前から消えたので安心していたら残っていて焦った。
    今、麻生事務所に電話したら無事帰国したと。
    とにかくよかった。

    たくさん悪口言ってた安倍ちゃんが、ああゆうことになって心の持って行き場がなかった。

    おそらく今日の福音にもつながるが、ひでえな、と思う人の悪口も、やがて死すべき人類の一員なのだから言わない方がよい。ひどい!と思ったら、不偏心で適切な指摘ができればよい。

    ゆるし!は自分のためでもある、と宗神父様は東日本大震災の直前、聖三木図書館の二階の階段のところで言ってくださった。

    天におられる私たちの父よ
    私たちの罪をおゆるしください
    私たちも人をゆるします

    主の祈りは我々が神の地平に立つ大前提だから、心で唱えて、ようやくまともな人間になれる。
    丸太を自分の目から取り除き、はじめて、人の目に入っているオガクズを取り除くことができる。
    ぼつぼつ丸太の男を卒業したい。

    天におられる私たちの父よ
    み名が聖とされますように
    み国が来ますように
    みこころが天におこなわれるとおり
    地にも行われますように
    私たちの日ごとの糧を
    今日もお与えください
    私たちの罪をおゆるしください
    私たちも人をゆるします
    私たちを誘惑におちいらせず
    悪からお救いください
    アーメン

    • 思わず、軍規の乱れ、と書いたが、この点、かばい合ってるのが戦前戦中的日本と戦後的アメリカだろう。

      ガラルダ師が書いた本の中に、確か盲目の老人と女性の話があった。
      葡萄を一粒づつ食べようと約束したが、すぐに老人は女性が三粒づつ食べてると指摘する。
      なぜなら、老人は二粒づつ食べてるのに女性がそれを指摘しないから。

      官邸は勿論、学校・警察・検察・弁護士会・病院・役所・マスコミ・政党・議会・裁判所、、。そしておそらくNATOも。国連も?すみません!北岡伸一先生の本、まだ読んでません。(国連にはマザー・テレサの弟子・泉ちゃんがいる!)ともかく、おいしい(これ勿論かけ言葉・ダブルミーニング)関係各位。

      互いに高め合う関係がよいが、結婚は相手が一人だからリスクが高い。
      共同体による修道生活はリスクヘッジの観点からも有効なのか。
      勿論、結婚も教会共同体の中である以上、羊飼いがいるから滅びへのリスクは低い。

      私に、あなたは、イグナチオ!
      と言ってくれたガラルダ師が居てくれて本当にうれしい。助かる。
      でも、いたずらに頼ってもいけない。

      派遣の祝福のとき、
      祝福が皆さんの上に
      と敢えて言わず
      私たちの上に
      と言うところがすごい。
      あるがままの自分でありつつ
      人間ではなく神に頼っている。
      つい人間に頼りたくなる自分。でも、無意識で神を求めているからたちが悪い。相手が大変だ。
      逆に司祭は自分に向かって来る人々を、まず、その者が何を求めているのか識別し、カエサルならば峻拒し(否!カエサルならばよりよいカエサルヘ導くべきだ。マジス!)、むしろ洗礼者ヨハネの洗礼について曖昧な態度を取る輩を断固峻拒し、無意識であっても神・キリストを求めているならば神の代理人として振る舞わなくてはならない。
      神の代理人とは何か。
      法的でも政治的でもなく神学的に?
      否!
      霊的に。

      エセイサバレナ神父様はアルペ師のことを、私にとって完全な人、と言った。
      今、司教団発行の名簿でエセイサバレナ師の誕生日が3月6日であることを知った。
      東日本大震災直前の3月6日、私にとって完全な人を知った。

      今、立ってこれを書いてるが、目の前の親父の本棚の広辞苑の両脇に、成語林とカタカナ語の辞典があるのを発見。
      我が友・我が師・山住正己が、友人の父親・労働組合活動家の死に際して、
      勉強家であるということは良心的である、と言った。

      イエズス会士は遊んでいるように見えてもみんな勉強家だ。

      イエズス会士と弁護者。
      山住正己は、早く受かればいいが、と弁護士になるのを待ち望み(私に、
      カトリックになれますか?
      と尋ねたフランス人女性の東京でのホームステイ先に山住邸を狙って電話した時、山住先生は、
      そのフランス人は女か?
      と尋ね
      私は
      はい。
      と答えた。互いに、しばらく沈黙。
      地上での山住正己との会話はそれが最後だった)
      西部邁は、弁護士なんかやめちまえ!と言った。(そういえば、田中康夫のスパイか?とも言った。大変な御時世である)
      いずれもクリスチャンとイエズス会には、並々ならぬ敬意を払っていた。

      小暮・トーマス・ボニー師の最終誓願ミサが気になる。

      まず、ミサであること。
      誓願のあとの聖体拝領。
      誓願とは、何かを限定するようで、実は無限。

      そして、デ・ルカ日本管区長の説教。

      まず、ピタウ師が出て来た。
      (最近、イエズス会士に、師の後継者はいないのか尋ねたばかり。
      メンディサバル師の死後、そのような質問ばかりしている自分が情けない。今日も中平健吉弁護士がやっていたキリスト教政治連盟は今どうなっているのか、日本基督教団と早稲田教会にきいたばかり)

      そして、サウロ・パウロの回心のようなことを言っていた。
      使徒言行録22章9節&9章7節。

      ちなみに日本警察の父・大警視は
      声無きに聞き、形無きを観る
      と言った。
      女子イエズス会と呼んでいる姉妹の確か姉の方に、
      世俗法と教会法、この二つの面で考えればOKですよね?
      と尋ねたら
      然り。
      と答えた。
      これを信じ突進したが途中、困難に出会い、
      イエズス会の霊的神学生に尋ねたら、
      日本では難しい、と答えた。

      要するにキリストだ。
      とにかくキリストだ。
      キリスト一本主義と言ったらよいか。

      キリストに依存しているのか
      スマホに依存しているのか、わからなくなってきたので寝る。

      軍規の乱れ
      我が身の乱れ
      丸太の男、ここに寝る。

  5. ガラルダ師がどこかで言ってた通り、インターネットは目の前に文章があってもすぐ消えちゃう!
    ひどい!
    このスマホも、電話かけ放題が固定電話になく、仕方なく始めたが、地獄に仏・祈る花!
    人間万事塞翁が馬!

    またこんなこと書いてると、あれほど世間に打ちのめされたのに、過去を捨てて街に出たくなる。おバカなぼく。
    ヴ・ナロード!
    喰う寝る宣教は人生の基本。

  6. 今日の福音だけだとわからないが、この次の箇所に回答があると思うが、そう読んでいいのだろうか。

    今日の箇所だけで考えれば、主の祈りの、
    私たちの罪をおゆるしください。
    私たちも人をおゆるします。
    ということだと思う。

    「自分の仲間に対して」との箇所は日本社会を見ていて本当にそうだなあ、と思う。
    罪の文化ではなく恥の文化だから、神とは関係なく、世間様世間体とこの世の利益さえ保てれば、善悪の判断は重視されない。

    この世の子らの寛大さは名誉と財産ゆえだが、光の子はつい仲間にも善悪の判断を厳しくしてしまう。光の子らは、善悪の判断も明白にした上で、この世の子ら以上に、もっと寛大になろう、
    ということを今日のイエス様は言いたいのだろう。
    母や私への犯罪についても、教員である弟夫婦をはじめとする地域ぐるみの犯行・隠蔽の団結力は目をみはる。特に私はそれをオープンにしてしまうから危険人物視され、つい明るく振る舞ってしまうから嫉まれる、あるいは子ども扱いされる。日本社会に合ったように善悪は曖昧にして、ゆるすしかないのだろう。
    正直言って、このあたりの感覚が私と全く合わない。互いに罪を告白し合い、善悪の判断をぶつけ合い、切磋琢磨して、正義に基づいた平和・真理に基づいた愛を築いた方が清々しい。

    思わず日本云々と書いたが、それも反証がある。と言うか、あった。小中学校の頃の教師の数人は、ごく稀に比例原則に合った体罰もあったが、と言うかだからこそか、善悪を判断すべきときははっきりさせ、自分の過ちがあれば生徒の前ではっきり謝った。情に厚く清々しい人が多かった。

    いつの間にか日本人は右も左もカネと名誉と組織防衛のためなら何でもする国民になってしまった。まあ、戦争中も軍規の乱れは国際的に有名だった。国民の圧倒的多数が人道犯罪の奴隷となり亡命より転向を選んだ。これは島国という地政学的なこともあろう。
    まあ、あまり日本に関わらず心を天に向けて生きたい。
    今日の大文字のテーマ、本国は天にある。

    私に倣う者となりなさい、
    と言えるパウロは本当にすごい。

    まさにパウロの爪の垢でも煎じたい。

    昨日から干してある洗濯物を取り入れよう。

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