イエスは故郷にお帰りになった
集会祈願
🌸 第一朗読 (エレミヤ26:1-9)
エレミヤの預言
ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。 2「主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。 3彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。 4彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、 5倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないならば――お前たちは聞き従わなかったが―― 6わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする。」
7祭司と預言者たちとすべての民は、エレミヤが主の神殿でこれらの言葉を語るのを聞いた。 8エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。「あなたは死刑に処せられねばならない。 9なぜ、あなたは主の名によって預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。
🌸 答唱詩編 詩編69 典115①②
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (マタイ13:54-58)
マタイによる福音
〔その時、イエスは〕故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」 57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
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拝領祈願
🌸 分かち合い
故郷ナザレの人々の反応はどの福音書も記しており、ルカに至っては、イエスの活動のはじまり、いわば、第一声の後、人々がイエスをナザレの会堂から連れ出し崖から突き落とそうとした、とショッキングなことまで記している。なぜ、そんな出来事を、福音書の冒頭にあえて記したのだろうか。しかし、実は、ヨハネ福音書の荘厳な序文の中にもこんな言葉がある、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1.10、11)と。人となられた神の子イエスは、故郷の人々だけでなく、神によって選ばれたイスラエルの民、御自分の民によって受け入れられなかった、と福音記者はそろって記しているのである。一体これはどういう意味だろうか。
人間には、人間を超えた存在が介入することを、根本的に恐れ、拒否する本能が働くのだろうか。自らの弱さ、不完全さに気づかず、現状に満足し、傲慢とかたくなさを批判する者を許そうとしない頑迷さが巣食っているからだろうか。神の存在を認め、神を礼拝することを学びながら、神がどこか遠く、人間の手の届かない高いところにいる存在、あるいは、人間の必要な時にだけ、人間の求めに応じる、人間の操作に従う便利な道具のように考えているからだろうか。神をあくまで、人間の自律を脅かすことのない、無害な存在として奉っているからだろうか。
イエスは、そうした人間の傲慢と不信に挑戦される。しかし、それは力によってではなく、自らの弱さによって、自らの十字架の死によってである。自らの貧しさ、弱さ、罪深さを認めるもの、労苦する者、重荷を負う者、それによって、心が砕かれ、心を神に開くものにだけ、御自分を現わされる。
わたしたちの内に潜む傲慢さ、尊大な心を認め、へりくだりの心が与えられ、そうした思いを深めることにつながるような経験を恐れずに受け入れ、少しでも、主の招きに応えて歩んでゆくことができるよう祈ろう。(S.T.)