最後まで耐え忍ぶ者は救われる
集会祈願
すべてを治められる父よ、み旨に従って生きる人に、あなたは神の国の喜びを備えてくださいます。あなたからいただくすべてのものが、救いの御業の完成に役立つものとなりますように。聖霊による一致のうちに、あなたと共に神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (ホセア14:2-10)
ホセアの預言
イスラエルよ、立ち帰れ
あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
3誓いの言葉を携え
主に立ち帰って言え。
「すべての悪を取り去り
恵みをお与えください。
この唇をもって誓ったことを果たします。
4アッシリアはわたしたちの救いではありません。
わたしたちはもはや軍馬に乗りません。
自分の手が造ったものを
再びわたしたちの神とは呼びません。
親を失った者は
あなたにこそ憐れみを見いだします。」
5わたしは背く彼らをいやし
喜んで彼らを愛する。
まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。
6露のようにわたしはイスラエルに臨み
彼はゆりのように花咲き
レバノンの杉のように根を張る。
7その若枝は広がり
オリーブのように美しく
レバノンの杉のように香る。
8その陰に宿る人々は再び
麦のように育ち
ぶどうのように花咲く。
彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
9ああエフライム
なおも、わたしを偶像と比べるのか。
彼の求めにこたえ
彼を見守るのはわたしではないか。
わたしは命に満ちた糸杉。
あなたは、わたしによって実を結ぶ。
10知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。
わきまえある者はそれを悟れ。
主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み
神に背く者はその道につまずく。
🌸 答唱詩編 詩編51 典7①②
答:あなたの息吹を受けて、わたしは新しくなる。
神よ、私のうちに清い心を造り、
あなたの息吹で私を強め
新たにしてください。
私をあなたのもとから退けず、
聖なる息吹を私から
取り去らないでください。 【答】
救いの喜びを私に返し、
あなたの息吹を送って
喜び仕える心を支えてください。
私はあなたへの道を教えよう、
罪びとがあなたのもとに帰るように。 【答】
アレルヤ唱 典272㉔
アレルヤ・アレルヤ。真理の霊はあなた方を真理に導き、わたしが話したことをすべて思い出させてくださる。アレルヤ・アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マタイ10:16-23)
マタイによる福音
〔その時、イエスは使徒たちに言われた。〕「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 17人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 18また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 19引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 20実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。 21兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 23一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
奉納祈願
万物を治められる神よ、あなたの栄光をたたえて供え物を捧げます。私たちが真の礼拝を捧げ、永遠の幸せにあずかることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
救いの源である神よ、今受けた恵みを深く味わわせてください。秘跡のしるしによって示される救いが、私たちの内に実現しますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
派遣される使徒たちへの戒めの言葉が続く。前段と違って、一段と緊迫感の溢れた言葉である。マタイには、同種の話をまとめる傾向があるが、マルコやルカは、イエスの受難を目前にした時期の言葉として記している。実際にはそちらが現実に近いかもしれない。
わたしがあなたがたを遣わすのは、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」納得のゆく言葉だが、事態は、もっと深刻だった。イエスは、今後起ることとして語るが、実際は、マタイ福音書が書かれた時期には、初代教会がすでに経験したことを背景にしている。事実、イエスに従っていった初期のキリスト者は、ゆりかごのような、自分たちの出身母体であるユダヤ教の会堂で糾弾され、地方法院に引き渡され、さらには、ローマ総督や、ユダヤの王たちの前で証しをしなければならなかった。「引き渡される」という動詞は、イエス自身の受難に際して使われた言葉である。
そこで語るべきことは、もはや人間の知恵ではなく、父の霊=聖霊によって教えられると言われる。家族からも疎まれ、さらには、キリストの名のために憎まれ、町から町へと逃げなければならなくなる。それは、イスラエルの地においてだけでなく、ローマでも、ヨーロッパでも、日本でも、宣教師たちが、そして、信徒たちが殉教者として経験したことである。
そんな状況に置かれたときに、自分が何を信じ、何を最大の価値としているか、イエスの弟子であるものは問われるのだ。(S.T.)