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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第十二金曜日(6/28)

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「よろしい。清くなれ」

聖イレネオ司教殉教者(記)

集会祈願

🌸 第一朗読 (列王記下25:1-12)

 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。 2都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。 3その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、 4都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。 5カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。 6王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。 7彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
 8第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、 9主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。 10また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。 11民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。 12この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。

🌸 答唱詩編 詩編137 典28①②

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (マタイ8:1-4)

マタイによる福音

 〔その時、〕イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。 2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 山上の説教に続く2つの章(8章と9章)には、イエスが行った奇跡の長いリスト(全部で10)が含まれている。それらは明らかに神ご自身の御業であるため、教える権威の裏付けと見なされる。このようなことができる人には、耳を傾けられ、従う権利がある。
 最初の話は、重い皮膚病を患っている人を治す話である。マタイに特徴的な、簡潔で詳細のない物語である(マルコ1:40-45と比べればわかる)。その人がいやされたいと懇願する。イエスに対する彼の信仰と信頼は、彼の言葉によって明らかにされている:
 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
 イエスは答えられた:
 「よろしい。清くなれ」。
 イエスは即座に彼をいやされた。私たちは、イエスの行為の単純さに気づくだろう。この点で、イエスの癒しの奇跡は、ヘレニズム世界の幻想的な物語や、時にユダヤ教のラビに起因するものとは対照的である。
 しかし、イエスの奇跡は、それらに付けられた霊的、象徴的な意味からも異なっている。それらはしばしばたとえ話のような性質を持ち、奇跡に添えられた言葉がより大きな意味を持つことが多い。この場合もそうで、重い皮膚病を患っている人の癒しは、以下に示すように、より広い意味を持っている。
 奇跡の背後にある動機は同情であることが多いが、多くの場合、奇跡は人の信仰を強めるものと見なされる。イエスもまた、行う奇跡を非常に選び、しばしば受益者に秘密を要求する。イエスはセンセーショナルな奇蹟の中心にはなりたくないのだ。イエスが何者であるかを決定付けるのは、復活の奇跡なのだ。
 間もなく、イエスは御国を宣べ伝えるために弟子たちを送り出し、彼らにご自身の癒しの力を授けられる。彼らの任務は、イエスが行ってきたのと同じ働きをすることである。8章と9章で語られる10の奇跡は、イエスの宣教の後継者たちも行うことになる。
 癒しの後、イエスは律法の要求に従って、彼が健康に戻った証拠として祭司たちから証明書をもらうために神殿に行くように指示する。この公的な証明書があって初めて、彼は社会復帰を許されるのである。
 重い皮膚病を患っている人は、古代社会では特に不幸な人であった。彼らとの接触によって病気に感染することが知られていたため、彼らは社会から隔離されていた。もちろん、治療法は確立されておらず、体は徐々に腐っていった。
 さらに悲劇的だったのは、まったく感染力のない、似たような種類の皮膚病を持つ多くの人々が、重い皮膚病を患っている人の烙印を押され、同じように隔離政策に処せられたことだろう。イエスによるその人の癒しは、肉体的な癒し以上のものであった。それは、その人が普通の社会に完全に復帰できることを意味していた。
 現代において、重い皮膚病を患っている人は、外国人、肌の色や文化、性別、宗教が異なる人々、薬物やアルコールなどの依存症患者、性感染症の被がい者など、何らかの理由で社会から疎外されているすべての人々の象徴となりうる。
 私たちキリスト者は、そのような人々を再統合し、兄弟姉妹として完全に受け入れるための癒しの担い手となる特別な責任がある。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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