集会祈願
すべての人の父である神よ、あなたの暗やみに光をもたらし、悲しみを喜びに返してくださいます。ここに集うわたしたちの心に信仰と希望の光を注ぎ、主キリストを迎える喜びで満たしてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (イザヤ61.1-2、10-11)
1主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。2主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知させるために。
10わたしは主によって喜び楽しみわたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾ってくださる。11大地が草の芽を萌えいでさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
🌸 答唱詩編 詩編ルカ1.46-55永昌 典179 ①ー⑦
答 1 わたしは神をあがめ、
神の救いに喜びおどる。
わたしは神をあがめ、
わたしの心は神の救いに喜びおどる。
神は卑しいはしためを顧みられ
いつの代の人もわたしをしあわせな者と呼ぶ。
神はわたしに偉大なわざを行われ。
その名はとうとく、
あわれみは代々、
神をおそれ敬う人のうえに。 【答1】
神はその力をあらわし、
思いあがる者を打ちくだき、
権力をふるう者をその座からおろし、
見捨てられた人を高められる。
上に苦しむ人はよいもので満たされ、
おごり暮らすものはむなしくなってかえる。 【答2】
答 2 神のあわれみは代々、
神をおそれ敬う人の上に。
神はいつくしみを忘れることなく、
しもべイスラエルを助けられた。
わたしたちの祖先、
アブラハムとその子孫に約束されたように。
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように今もいつも代々に。アーメン。【答2】
🌸 第二朗読 (一テサロニケ5.16-24)
16〔みなさん、〕いつも喜んでいなさい。 17絶えず祈りなさい。 18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 19“霊”の火を消してはいけません。 20預言を軽んじてはいけません。 21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。 22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。 24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
アレルヤ唱 典255 第三主日
アレルヤ、アレルヤ。神の霊はわたしたちの上にある。貧しい人に福音を告げるため、神はわたしを選ばれた。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ1.6-8、19-28)
ヨハネによる福音
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
奉納祈願
恵み深い天の父よ、この食卓を囲むわたしたちを聖霊で満たしたください。ともにいてくださるキリストの愛を深く味わうことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
命の源である神よ、主の食卓で養われたわたしたちを導いてください。あなたからいただいた喜びを多くの人と分かち合い、救いの訪れを世界に告げ知らせることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
昔から、待降節第三主日は「喜びの主日」と呼ばれる。入祭唱の「喜びなさい」という言葉に由来すると言われますが、現実的には、とても喜べない状況にあっても、あえて喜びを告げるみ言葉に希望をかけるのは、今も変わりがありません。
最初に読まれたイザヤの預言は、辛い捕囚の生活が終わり、祖国に戻ることを許されたイスラエルの民が味わう苦しみの中で語られたものです。かつての祖国は、いつの間にか力を回復させた、かつての北王国サマリアの支配が強まり、祖国にとどまった人々も自分たちの権利を主張してはばかりません。たとえていえば、太平洋戦争が終結して、モンゴル・満州・朝鮮半島など、大陸に残されて帰還した日本人が「引き上げ者」として味わった苦しみに似ているかもしれません。しかも、祖国再建の歩みは、様々な障害にぶつかって遅々たるものでした。その中でも、預言者は言います、
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を知らせるために。・・・わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。・・・大地が草の芽を萌えいでさせ、園がまかれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」と。
これは、まだ目にしていない、来たるべき喜びの時を告げる預言者の言葉です。聖母マリアの喜びを歌う答唱詩編の言葉も、それに呼応するかのように、主が行われる驚くべき御業を語ります。
第二朗読のテサロニケの教会にあてたパウロの手紙は、パウロが第二回伝道旅行の途中で記した、最も古い手紙とされていますが、そこには、司牧者としての慰め深い心が溢れています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。しかし、パウロのこの手紙は、パウロが滞在したテサロニケの会堂で、ユダヤ人から苦しみを受け、あたかも追放されたかのように後にした心残りのある共同体にあてた手紙なのです。
そして、喜びの便りである福音を記す今日の福音は、洗礼者ヨハネの証しを告げるヨハネ福音書が読まれました。
来たるべきメシアの先駆者と言われるヨハネは、ヨハネ福音書の冒頭で、「光を証しする人」として紹介されます。「ヨハネは神から遣わされ、光について証しするために来た」と言われます。しかし、ヨハネ自身は、決して自ら誇ることをしません。むしろ、自分は小さな、取るに足りない存在だと認めます。エルサレムから遣わされた祭司やレビ人の前で、ヨハネは、自分がメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもないと断言します。むしろ、イザヤの預言が記した「主の道をまっすぐにせよ、と『荒れ野で叫ぶ声』」に過ぎない、と主張します。そして、ヨハネの弟子たちの問いに答えて、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3.29,30)と。ヨハネは日が昇ると姿を隠す月のように、あくまでも低い姿勢に徹します。あたかも、約束の地を遠く見ながら、そこに入ることを許されなかったモーセのように、また、メシアについて預言した多くの預言者のように。
しかし、わたしたちは、彼らが告げた方がすでに来られたことを知っています。救いの夜明けが訪れたことを感じています。しかし、本当の喜びは、いつもわたしたちの先にあります。まだ見ていない、聞いていない、体験していない、大きな喜びが訪れることを希望のうちに信じているのです。この神からだけ来る救いを、様々な困難を抱える今年の降誕祭にあたって、一層深く味わう恵みを祈りましょう。(S.T.)