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教皇の意向:子を失った親 (11月)

復活節第二日曜日A年(4/16)

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神の慈しみの主日

イエスが来て真ん中に立ち、

ヨハネ20:19
集会祈願

🌸 第一朗読 (使徒言行録2:42-47)

 42〔信者たち〕は、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
 43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

🌸 答唱詩編 詩編118 典87①②③

アレルヤ唱 典264(第二主日)

🌸 福音朗読 (ヨハネ20:19-31)

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 復活祭から一週間、満開の桜が姿を消し、新緑とつつじの美しい時期になりました。単純に主が十字架の死から立ち上がり、復活されたことを喜ぶときから、一歩進んで、復活を信じて生きることの意味を考える時になったのではないでしょうか。復活第二主日に毎年読まれる福音は、ヨハネ20章に記された使徒トマスの体験です。アレルヤ唱で歌われた、「トマよ、あなたは私を見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」という言葉。この言葉の意味をゆっくり考えてみましょう。

 お聞きになったとおり、トマスは、復活されたイエスが使徒たちにお現れになったとき、なぜか、皆とともにいませんでした。皆がイエスに会った喜びを伝えても、トマスは喜ぶことができません。「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。このトマスの発言から、彼はいかにも、疑い深い、懐疑主義者のように思われがちですが、はたしてそうでしょうか。

 実際、ペトロをはじめ使徒たちは、イエスの復活を容易に信じようとしませんでした。イエスに出会った、イエスを見た、という仲間の言葉を聞いても、一向に信じようとしなかったことは、マルコ福音書16章に繰り返し記されています。今日の福音のはじめの部分でも、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と記されています。恐れのあまり身を隠していた弟子たちに、イエスが姿を現され、その手とわき腹をお見せになると、弟子たちは「主を見て喜んだ」とあります。イエスの最も近くで起居を共にした使徒たちも、十字架上で亡くなられたイエスが復活して、生きておられるとは、とうてい考えられなかったのです。彼らの目が開かれ、復活を信じることができたのは、イエスご自身が自らを現わし、生きていることを示された、いわば、弟子たちが復活のイエスを直接体験したことによるのです。そして、これは、教会の礎となる使徒たちに与えられた特別な恵みだったことは否定できません。

 トマスは再び機会が訪れたとき、復活された主に出会い、イエスの言葉を聞きます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスに諭され、「わたしの主、わたしの神よ」と素晴らしい信仰告白をします。トマスも、他の弟子たちと同じように、直接復活の主を体験することによって、復活の主を信じる恵みをいただくのです。彼も、他の弟子と同様に、教会の礎となる使徒の一人だからです。

 翻って、わたしたちの信仰を考える時、わたしたちが使徒たちから伝えられた信仰を守っていることは確かです。復活された主を直接体験した使徒たちが語り、復活した主の力によって様々な不思議を行い、教会を発展させた使徒たちの伝えた福音を信じて生きています。使徒たちが受けた特別の恵みとは違う状況の中にありながら、復活について聞き、信じているのです。それは、ある意味で、復活の主に出会う前のトマスの経験とつながります。しかし、主に出会って、復活を信じたトマスにイエスは言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。これは、わたしたち、直接、復活の主を体験することのないものに向かって言われた言葉です。

 わたしたち、教会に生きるものは、直接主に出会うことはありません。しかし、人生の中で出会う様々な苦しみ、痛み、負わされる傷、無力とみじめさの体験、こうしたことを、主が味わわれた苦しみと重ねることができた時、わたしたちは、復活の主に一歩近づくのではないでしょうか。主を直接見ることがなくても、主の受けられた傷を自らの中に見出すとき、また、現在、世界中で人々が負っている様々な傷の中に見ることが出来たとき、イエスを復活させられた神の力が自分の内に働くこと、復活されたイエスが主が今も、わたしたちの内に生きて働いておられることを信じる信仰に導かれるのではないでしょうか。今も、苦しみの中にある多くの人々に、復活の主が与える希望の光が注がれますように。そして、わたしたちも、復活の主への信仰を、日々の現実の中で、一層確信をもって生きることが出来ますよう祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

12 comments

  1. 本日、4月22日産経新聞第一面産経抄が島田雅彦らの発言について的確に書いている。
    よい意味で大人の文章だと思う。

    返信
  2. 島田雅彦が批判する文書改ざんも暗殺も同じ穴のムジナ。
    悪を肯定するうちはガキンチョ。
    幼い頃にいたずらっ子のタズラくんは卒業シマウマ島田娘!

    返信
    • 本日、4月22日産経新聞第一面産経抄が島田雅彦らの発言について的確に書いている。
      よい意味で大人の文章だと思う。

      返信
  3. 安易なアナーキズム、と書いたが、島田雅彦がまさにそれだ。
    安倍元総理暗殺直後、地元で平和運動をやっている人が、よかった、と言うのを聞いて、疑いをもって距離をおいていてよかったと思った。島田も新宿の文壇バーでニアミスはあったが当方貧乏につき一杯で退却ゆえ会わずに済んだ。

    悪と戦うまともな人間とともにいたい。
    エフェソの信徒への手紙6章10節以下。

    返信
    • 4月22日1:09の文章は以下2点で不正確。

      「島田も新宿の文壇バーでニアミスはあったが当方貧乏につき一杯で退却ゆえ会わずに済んだ」
      とは、二、三のこと(とき)を一気に書こうとして失敗。コロナ流行以降、電話・対話でもそれをやり狂人扱いされること多し。
      島田雅彦のみならず文士名士集う件の文壇バー(論壇バーの方ではない)には結局、僕は一度も行ったことがない。ただ、友人に連れられて、古井由吉目当てで行ったが閉まっていて、近所のビルの看板に偶然見つけたダライ・ラマ法王庁に友人の制止を振り切って階段登ってドアの前まで行ったが、そこも閉まっていた。実はその日、僕は四ツ谷で洗礼を受け、偶然、紀尾井町のコンサートホールに来ていた友人と合流し、今はなきエルで友人に洗礼祝いと称して御馳走になり、友人に当時在世中の最近帰天された京子さんを紹介して、新宿へ向かったのだ。その後、高田馬場のジャズバーに行った。その日のピアニストに、実は今日、洗礼を受けた、と言うとカウンターに偶然いたユダヤ人を紹介してくれたが、あまり話さずテーブル席で友人といた。そのあたりからはっきりと洗礼直後の修道院での小さなパーティーでリーゼンフーバー師がくれた包みの中身がわかりはじめていた。ヘルパーの女性たちが準備した包みは洗礼を受けた一人一人色が異なりハイカラで、リーゼンフーバー師の手を通して頂いたが、何だか女性たちから頂いた気がしてバカな僕はウキウキしていたのである。しかし、ジャズバーのテーブル席で半ば無意識に足元の椅子の下に置いたその包み。演奏を聴き友人と楽しく会話していても足元の包みが気になる。とにかく猿楽町のYMCAアジア青少年センターの自室に戻るまで包みは開けないと決めたと思う。友人と別れ、猿楽町に向かうときには確信になっていた。部屋で一人、包みを開くと、
      やはり!
      十字架上のキリスト!

      後段、「当方貧乏につき一杯で退却」するか否かは隣の客による。新宿の論壇バーでは西部邁が本当によくカティサークを御馳走してくれた。カティサークと言えば名取裕子!と連想する田舎の青年に本物を味あわせてくれた。
      ワインは高田馬場のスペインバルとエルの山本神父様。
      ちなみに読売新聞は今度、三浦綾子(幼い頃の憧れの従姉から借りた文庫本がそのままあります。昔、弟もその従姉に憧れていたと話したことがある)と遠藤周作(実は僕は安倍晋三さんほど真面目じゃないので長編は『王妃マリー・アントワネット』と『父親』ぐらいしか読んでなく、あとはもっぱらエッセイ。というか、あの話し方とか、学生時代に山本神父様といたずらしたり吉行淳之介と遊んだり、北杜夫とテレビで対談したり、いきなり北杜夫が泣き出したり、奥さんや息子さんが、恐らく苦労したり、そうゆうのが素晴らしい!と思うのです)の特集をやるが、、。
      高田馬場のスペインバルで僕にワインをたらふく御馳走してくれたのはドイツ語勉強会でプロテスタントの奥さんをGETした翻訳事務所経営者と広告代理店の営業マンと新宿の若き娼婦、、、そしてなんと言っても、バルのオーナー(そして今も続く電話の友など)。そういえばジャズバーの大ママと小ママも誕生日に御馳走してくれた。それに、ワインどころか場を提供するって大変だ。
      エルの京子さんも今頃になって凄さが身にしみる。
      京子さんが転んで手を骨折された時、それがロヨラのイグナチオの日で、流石にその時は恵みだとは言わなかったが、二人で、ウーン!と、うなった記憶がある。
      陰口ウワサはイジメと同根!?などとファリサイ派症の病識なき僕に、「ウワサの中に入らないとダメ!」と言ったのは京子さんだ。
      ♫とびかうウワサの中を♫
      世良公則&ツイスト『燃えろいい女』を思い出す。
      無頼派司祭、我が命の恩人マウツ師との私的個人的出会いもエルだった。その直前、公教会のミサで「主はみなさんとともに!」と手を大きく回されたマウツ師。エルで両切りゴールデンバットを吸っていて、止めに入って知り合った。
      最近、You Tubeで見た岩島師もエルで語る姿こそ大胆で、本当は全部You Tubeを聴いたり岩島師も執筆されている日本司教団『カトリック教会の教え』を再び読んだりした方がいいのだろうが、信徒会館4階のバルコニーで一人、スパーっとタバコを吸う姿など、神学者の生活の一端を思い出す方がエネルギーが湧いてくる。歩行喫煙するサルトルより岩島師の方が正しい?!。

      第2点。「悪と戦うまともな人間、、」と書き、エフェソを引用したが、
      特にエフェソ6章10節以下の肝は12節「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、、、悪の諸霊を相手にするもの」との箇所だと思う。
      人間同士が争うのは悪の諸霊・悪魔の思うツボで、人間同士はどんぐりの背比べだから、言論の鉄砲玉や爆弾はまだしも、本物の鉄砲玉や爆弾はだめだぜ!ってことだと思う。

      返信
  4. アニマ・クリスティ(キリストの魂)を知る者にとって、自分の傷が深ければ深いほど、キリストの傷に近づき、
    実は、心の深い傷こそが、
    「工場裏の夕陽の空地」
    「宝島だった秘密の空地」
    (松任谷由実『ダウンタウン・ボーイ』)
    だ、ということを知っている。

    返信
  5. 分かち合いの最後の方に書かれていることは、死と復活と言ってよいと思う。

    認知症は法的な死
    何でも発達障害にしたがる人
    といった本が出回る今日、誰でも社会的に無きものにされる危険におびえて生きている。

    イエス・キリストは死を滅ぼした。

    フローレス神父様はミサで御聖体を、これは復活したキリスト、と言われ、
    僕は、うお~!!!っとなった。
    まさしく、その通り!

    四ツ谷の教会では子どもたちの初聖体。
    柴田神父様が小さなテレーズを引き合いに出された。
    岸田総理を襲撃した木村君も確か24歳だが、小さなテレーズを知っているだろうか。知っていたらもっと違う表現をしただろう。我ら教会の責任は重い。

    柴田神父様は、また、父上のことを話された。
    我ら現代人にとって自分の父母を語ることは、自分の傷を語ることに等しい。勇気のいることだ。
    トマスに自らの傷を示されたキリストの、見事な代理人の誕生を、僕は、喜ぶ。
    アーメン。

    返信
  6. 宮台真司がやられた時も東京都立大の人間と電話していて、昨日、岸田ちゃんがやられそうになった時も自民党本部と電話してた。
    こういうのにいちいち驚いてるのはガキンチョだとわかっている。
    でも、なかなか電話魔・電話狂は卒業できない。

    こういうスマホのような機械モン使って云々するより、面と向かってピーチクパーチク言った方が、からだの復活を信じる我々にふさわしいと思う。

    花よりダンゴ
    祈る花よりしゃべる花🌷
    もし近所にいたら教えてください!

    返信
    • からだの復活については、ラザロの復活とは違うし、まず、キリストが再臨してからだ。
      詳しいことは知らん。
      信じる、とは無意識で知ること。
      だから、言葉をつくしても説明しつくせないし、全身全霊で賭けることをもって知る、信じると言うのである。

      返信
  7. 見ないのに信じる人は幸い。
    第一朗読にある信仰共同体は幸いな人々の共同体。
    既に2000年前にあった幸いな共同体が、今、あるだろうか。
    なければ、これから作るしかない。

    トマスは懐疑を素直にぶつける誠実な人だと思う。
    35年前、アムネスティインターナショナルのボランティアで全国行脚したとき、和歌山のカトリック教会に泊めてもらった。
    夕食の時、信者の主婦の一人が「しっかり疑い、しっかり信じる」と言った。
    その時は、自分がカトリックになるとは思いもよらないことだった。

    分かち合いにある通り、毎日が死と復活だ。
    神の愛を感じ、神の命を生きたい。

    返信
    • 確か、その主婦は産業廃棄物処理施設をめぐる住民運動に参加して、当時(朝日新聞阪神支局襲撃事件の後、神奈川県警による日本共産党国際部長宅盗聴事件の前)の警察に深い疑念を抱いていた。
      警察への不信は国家への不信となるが、安易なアナーキズムとは、程遠い、静かな落ち着きがある人だった。

      国家と教会が、相当深く共鳴・協働しないと、新しい地平は来ないだろう。

      2010年6月上旬、四ツ谷の昼のミサ後、バリー師に福音箇所について、質問に行った。
      国家と宗教について、分離し協力することを言われたと思う。

      人間同士、国同士、国家と宗教も、それぞれの精神の自由と独立が前提だと思う。

      追伸
      2010年6月1日マルコ12章13から17節。
      まず、イエスは罠に陥らなかった。
      悪を行わないことは当然として、悪に騙されないことも大切。
      そして、祈らなくてはならない。
      神に従った政治をするように祈り、協力を。

      返信
      • 安易なアナーキズム、と書いたが、島田雅彦がまさにそれだ。
        安倍元総理暗殺直後、地元で平和運動をやっている人が、よかった、と言うのを聞いて、疑いをもって距離をおいていてよかったと思った。島田も新宿の文壇バーでニアミスはあったが当方貧乏につき一杯で退却ゆえ会わずに済んだ。

        悪と戦うまともな人間とともにいたい。
        エフェソの信徒への手紙6章10節以下。

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