集会祈願
いのちの与え主である神よ、あなたはすべてのものを守り育て、豊かな実りをもたらしてくださいます。わたしたちがいつもあなたの働きに心を向け、その愛にふさわしくこたえることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (イザヤ5:1-7)
1わたしは歌おう、わたしの愛する者のためにそのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よわたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのになぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5さあ、お前たちに告げようわたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに見よ、叫喚(ツェアカ)。
🌸 答唱詩編 詩編80 典80④⑤⑥
答 神よ、わたしに目を注ぎ、
強めてください、手をさしのべて。
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、
ほかの民を退けてそこに植えられた。
まわりが耕され、
その木は根を張り、おい茂った。 【答】
すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、
またこのぶどうの木を顧みてください。
あなたがご自分で植えられた苗と、
強められた若枝を守ってください。 【答え】
あなたの手はあなたの右腕である人の上に、
強められた民の上に。
わたしたちはあなたから離れることなく、
いのちであるあなたを呼び求める。 【答】
🌸 第二朗読 (フィリピ4:6-9)
6〔みなさん、〕どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。8終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。 9わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
アレルヤ唱 典270 27A
アレルヤ、アレルヤ。あなたがたを世から選んだのは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためである。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マタイ21:33-43)
マタイによる福音
33〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
奉納祈願
造り主である神よ、大地の実りから作られたパンとぶどう酒を供えて祈ります。感謝をこめて主の食卓を囲むわたしたちのうちに、救いのわざが力強く実現していきますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
父よ、感謝のうちにあなたをたたえて祈ります。豊かな恵みに満たされたわたしたちが、日々の生活の中でふさわしい実を結ぶことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
秋が深まってくると、様々な大地の恵みを味わう喜びが与えられますが、中でも、ぶどうは聖書の中にもよく登場する植物です。今日の典礼には、こうした季節にふさわしく、ぶどうにまつわる話が選ばれています。
第一の朗読では、イザヤ預言書から、神が精根込めて育てられたぶどう畑のことが読まれました。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、よいぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った」と。神が愛を注がれたイスラエルの民は、しばしばぶどうの木にたとえられています。
答唱詩編(詩編80)で謳われたのも、ぶどうの木にたとえられたイスラエルのことです。しかし、イザヤ預言書は続けます。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と。そして、あれほど、ぶどう畑のために心血を注いだのに、どうしてよいぶどうが実らなかったのか、という神の嘆きを語ります。そこには、イスラエルの民が神の期待に応えず、道からそれていった歴史が暗示されています。
選ばれた民イスラエルが歩んだ歴史に触れるとき、どうしてあれほど神に愛された民が、神を忘れ、周囲の国々の影響を受けて、歩むべき道を見失い、偶像礼拝に陥ってしまったのかと、だれもが考えるでしょう。しかし、そうした思いは、だれよりも、神から遣わされたイエスの心を占めていたに違いありません。
マタイ福音書が今日のたとえ話の中で伝えようとするのは、まさに、そのことです。酸っぱいぶどうについて語ったイザヤ預言者より、はるかに強い口調で、イエスは訴えます。収穫の時になって送った僕たちに、主人からぶどう畑を貸し与えられた農夫たちが何をしたか、切々と語ります。「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。」そして、最後に送られた自分の「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」、と。イザヤ預言書で、酸っぱいぶどうしか実らせなかったと言われたイエスラエルが、僕たちだけでなく、今や、主人自らの息子まで殺した、ということで、イスラエルの民が、神ご自身が送られた独り子イエスを十字架につけて殺すことをほのめかしておられるのです。そして、その結果として、ぶどう畑は、農夫たちから取り上げられ、実を結ぶほかの農夫、すなわち、イスラエルとは異なる人々の手にゆだねられると言われます。これは、厳しい処罰、恐ろしい裁きに聞こえます。
事実、イスラエルの都エルサレムは、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤの民は、2000年近く、国を持たない流浪の民となったのです。しかし、マタイ福音書は、それを単なるイスラエルに対する裁きではなく、それを契機として、救いが世界に及ぶことになったことを暗示して話を結びます。旧約の民が歌い、今、教会が復活節に歌う詩編の言葉を引用します。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。十字架で亡くなられたナザレのイエスが復活して、主イエス・キリストとされたように、イスラエルの滅びによって、救いが全世界の人々に及ぶ大きな恵みになったその不思議を、今、あらためて感謝のうちに黙想いたしましょう。
今日、この後、ひとりの方が洗礼をお受けになります。洗礼は、水を注ぐことが目に見えるしるしです。水を注ぐことは、汚れを洗う、罪を清める意味がありますが、同時に、パウロが説明するように、水に一度沈められる、つまり、死ぬことを意味します。人間的な思いに従って生きる古い人間に死んで、復活されたイエスの霊に従って生きる新しい人間に生まれ変わることを意味します。これは、人間の努力によるものではなく、神の無償の恵みのなせる業です。洗礼は、人生に一回限りのことですが、回心は一生繰り返さなければなりません。何度、同じ過ちに陥っても、主は赦しの恵みをお与えになります。洗礼式に与るとき、わたしたちが受けた洗礼の恵みを思い起こして感謝を新たにいたしましょう。そして、回心の恵みによって、自分だけでなく、自分が出会う人々に、同じ救いの恵みがもたらされるよう祈りながら、洗礼式に臨みましょう。(S.T)
🌸 他の分かち合い
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』(マタイ21:42;詩編118:22-23)。神は私たちのために不思議なわざをなさってくださいます。そして、神が不思議なことを望んでおられるのは、私たちが回心すること、また神の御独り子主イエスを受け入れ、主イエスを信じて、主イエスに従うことです。しかし、度々私たちは主イエスを拒否してしまったり、利益を自己中心的に追求してしまったりしています。それにもかかわらず、神は絶えず私たちを愛しぬかれて、主イエスを通していのちを与えてくださいます。それで、私たちは神の忍耐強さと愛深さを感謝しながら、悔い改める恵みを願い求めましょう。
今日読まれた第二朗読で、パウロは当時の異教世界で説かれていた「徳目」を列挙しています。キリストを基準として異教文化を「心に留める」時、すべては正しく位置付けられ、ふさわしく評価されるからです。祈りと感謝によって思い煩いから解放され、異邦人も大切にする徳目を心に留めた上で「学び、受け、聞き」にしています。さらに、パウロの生きざまのうちに「見る」ことのできる教えを実行するなら、「平和を与える神自身が共にいる」とパウロは約束します。平和の神は、困難のうちに生きたパウロを慰め力づけた神です。だからこそ、「平和の神があなた方と共に」という約束は、兄弟姉妹への祝福となります。
ここで、異邦人と言われていますが、彼らは使徒たちから教えを聞き、主イエスを受け入れ、主イエスを信じて、そして主イエスに従う人々です。
ところが、今日の福音で、「ぶどう園と農夫」のたとえが語られて、ユダヤ人たちは神の子である主イエスを受け入れなくて、さらに、主イエスをぶどう園の外、すなわちエルサレム城外のゴルゴダで十字架にかけて殺したという話です。このたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えることができます。神は旧約時代に預言者たちを遣わしたが、イスラエルの民は彼らを受け入れませんでした。最後に神はご自分の子を遣わしたが、この主イエスも迫害され、殺されました。しかし、神は主イエスを復活させ、救い主として立てられました。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』(42節)。そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになりました(43節)。異邦人とは、先ほど言いましたように、使徒たちから教えを聞き、主イエスを受け入れ、主イエスを信じて、そして主イエスに従う人々です。この人々は私たちなのです。
しかし、気を付けていきたいのは今日の福音に書いてある最後のみ言葉です。「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と。神の愛のために感謝しながら、日々悔い改めて、主イエスに学び、主イエスを受け入れ、主イエスに従う必要があります。その実を結ぶ者となりますようにお互いに祈り求めたいと思います。