集会祈願
🌸 第一朗読 (1ヨハネ3:11-21)
ヨハネの手紙
11〔愛する者たち、〕(なぜなら、)互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 12カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。 13だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。 14わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。 15兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。 16イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 17世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 18子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
神への信頼
19これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、 20心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。 21愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ〔ます。〕
🌸 答唱詩編 詩編 典
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (ヨハネ1:43-51)
ヨハネによる福音
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日の福音は、ヨハネが記す最初の使徒がイエスに召された時の話。共観福音書の召出しの箇所を読んで正直感じることは、どうして、大の男たちが「わたしに従いなさい」というイエスの一言に従っていったのか、と。幸い、ヨハネは、使徒たちが、人間的な思いを持ちつつも、イエスとの親しい出会いによって、人生を変えることができたかを伝えてくれる。
昨日読まれた箇所では、アンデレともう一人の弟子(おそらくヨハネ)が洗礼者ヨハネからイエスを紹介され、イエスのもとに出かけてゆき、一晩ともに過ごしたことを記している。その稀有の体験によって、彼らの人生は決定的に変えられた。アンデレは翌日、兄弟ペトロに「わたしたちはメシアに出会った」と自分たちの経験を話し、そして、今日の箇所で、同郷のフィリポはイエスから声をかけられ、さらにナタナエルにその体験を伝える。疑い深いナタナエルは、「ナザレの人」と聞いて俄かに信じることが出来ないまま、フィリポの「来て、見なさい」という言葉に従って、イエスの人知を超えた存在に触れ、「あなたは神の子、イスラエルの王」とまで公言する。
大晦日の日に帰天された前教皇ベネディクト16世は、『使徒―教会の起源』と題された連続講話の中で、こう言われる、「わたしたちは、イエスを知るために、何よりも生きた経験を必要とします。ほかの人のあかしも確かに大事です。(しかし、)
個人として、イエスと、親しく、また深い関係を結ばなければなりません」と。(p.158)
年初にあたり、そんな恵みの経験に導かれるよう祈ろう。(S.T. )
昨年の自分の書込みがあることにびっくりしたがそれは一切無視放下し今思うところを書く。
ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っているが、ナタナエルは、ルカ4章16節以下ようなナザレ、のみならず世俗化した現代の現実を見抜いていることがわかる。
まず、ナタナエルのような冷静さを持ちたい。
そう言えば、『完璧な冷静!』ってな本が出たオバマも、まあ、あんなとこ。
バカにしてる訳じゃない。
おんなじ人間。
人間の冷静さなんて、たかが知れている。
たかが人間、されど人間!
どうする人類!
ああ!
新人類と言われた頃が懐かしい?
新人類から真人類へ!!
イエスに出会ったフィリポと、ナタナエルが出会えたのも、世俗化した群衆や世の空気に左右されない冷徹さゆえだと思う。
インターネットだの、SNSだのが普及したおかげで、今や地球がナザレになっちゃった!
でも、気いつけや!
コスパ、タスパの人類たち!
超音速のコンコルドだって墜落したんだぜ!
狭い宇宙、そんな急いでどこに行く!
ゆっくり走ろう信濃路を!
ゆっくり走ろう北海道!
ゆっくり喰おうカップラーメン!
ゆっくり急げ?!
ラテン語嫌い!
ラテンは好き!
2023年12月27日の教皇フランシスコの一般謁見での講話は自分のうっかりミスを指摘してくれた。
マタイ4章の荒野での誘惑で、悪魔と議論しないこと、まして抵抗、反撃してはならないのだ!(もっともこれはマウツ師やマルチン師が見事に看破したように罪ではなく、チャレンジだ。余裕があればやればよい?
否!
生ぬるい!
人間は限界までやらないと真実は見えない!
クラウス・リーゼンフーバー!
元気かい!?)
悪魔に聖書の言葉のみで反撃するのが基本(もっともこれも場合によっては原理主義になる危険)。
「教会教皇公会議文書をもっと勉強してください!」と僕に言った若い外国人司祭の言葉の想起も僕を痛悔させる。自分の言葉でなく,
議論するなら教会文書のようにしろと。
たしかに!
それが無難。
でも、それじゃあつまんねえだろ!
まるでナチスドイツやムッソリーニイタリアや末期の大日本帝国のようだぜ
って、お笑いの神学を実践したのがまずかったみたい。
霊操中の面談でアモロス師もマタイ4章のイエスの態度を引き合いに僕に「心情を吐露しないこと」と言われた。
教皇フランシスコも言う、心を守れ、と。
でも、心が混乱しなければ恋と言えない!
ルパン三世特別快直『神は恋!』
「すべての愛は初恋である」
金大中
♪愛って、よくわからないけど
傷つく感じが素敵♪
薬師丸ひろ子「メインテーマ」
教皇フランシスコ誕生の知らせを母も喜んだその時から、とっくに終わったと思っていた、荒野の40年、荒野の40日が実は始まっていたのだ!
こわい!
我々人間の心の中に入り込む悪魔を指摘しながらも、ルカ4章16節以下のように人殺し集団から脱出できたのはキリストだからこそ。
地元の悪に抵抗していた父と似てしまい僕も抵抗したら、形式的合法医療により父を殺され、世界悪に抵抗したら世間体奴隷家畜たちに危険人物視され(これは日本人司祭が3分の僕の話で見事悟り僕に教示した)、地域ぐるみで精神病院に拉致監禁された上に殺されそうになり(登校断固拒否していた中学時代と同じ?当時はもっと沢山まともな教師がいたが)、弟夫婦の侵入窃盗のみならず合法的に父を殺した地域ぐるみ犯罪について母がようやくナタナエルのように現実に目覚めた夜、「善は急げ」と地元警察に抗議に行ったら、母の面前で僕は逮捕され、僕の逮捕中に母は弁護士介護士に拉致され、未だに行方不明。
教皇フランシスコも指摘する通り悪魔とその支配下にある人々は蛇のように賢い。
この世の子は光の子より賢いのだ。
特にその団結力は素晴らしい!?dreadful!
聖書の言葉は実現する(例えばマタイ10章16節以下)。
不正に得た富で友達を作れとキリストは言う(ルカ書)。
裏金作りの政治家は、
現代のファリサイ派・「人権」派「左翼」弁護士集団(産経新聞2022年10月21日百地章論文参照)のように、人の家族を留守中に黙って拉致したりまではしない、多分。
「だいたい人の大切な家族を留守中だまって連れ出すなんて、まともな人間がやることじゃないぜ!」
って良い警察官が言ってくれたし、
「人の母を一時預かっておきながら、どこに行ったか知らないと雁首そろえて言う介護施設なんて無責任だ!」
って良い近所の人々も言ってくれた。
日本が真に普遍法に従う法の支配の国ならば、裏金政治家が普段差別している貧しき人々に裏金を与えることを条件に免責し、
ナチスドイツやロシアのプーチンのように法令を悪用し人の家族を当事者に告知聴聞の機会も与えずに拉致監禁している法律家集団・機関・組織も、
悪しき個人主義と虚栄妬み怨恨による家庭家族破壊主義を放棄し、人質にしている父母や子どもたちを解放することを条件に免責すべきだと思う。
条件付のゆるしでよいか。
聖霊に逆らう罪はゆるされない。
悪の実行中は神ですら恵み(ゆるし)を与えられないと思う。
もっとも、神にできないことは何ひとつない(例えば「犯罪者」への秘跡の執行。犯罪実行行為中・殺し盗み姦淫偽証中・の洗礼は普通不可能だが、例えば今現在の私の母に対する悪い人々のように逮捕監禁致傷など継続犯の実行行為中ならば洗礼は可能だ。勿論、洗礼後、できれば洗礼前に,母を解放すべきなのは言うまでもない。
なお秘跡の執行の主体は神であり司祭は使者に過ぎない)。
ルカ書の不正な財産の管理人のたとえは、
我々キリスト者は常に神から圧倒的恵みを頂いているから、神である主人との関係では常に罪人(不正)であり(詩編51章6節「あなたのみにわたしは罪を犯し」)、神に借金を返すことは到底できないが、
だからこそせめて人々に貸している借金ぐらい当然チャラにしなきゃね🐭ということ。
つまりゆしてゆしてゆして生きるのがキリスト者人生ってこと。
ああ〜大変だあ!
オーストラリア人の歌手にジャズバーで
What is love?
ってきかれ
Patience!
なんて大声で叫ばなければよかったかも~。
人生はブーメランだ。
必ず返ってくる。
人生はフェアではない、
って言うのはケネディ家の家訓。
健全な信仰とはいえん!
神はフェアだ。
キリストを見よ!
🐭ネズミが出てくる次の行は、ゆるしてゆるして、が正しいです!
とはいえベネディクト16世『神は愛』は確かに素晴らしいが今から読むとちょっちと思うところもある。
28aの終わりの方、日本語訳の56ページに
「公正な社会を実現すべきなのは政治であって教会ではありません。」
とあるが、これはまずいんじゃないかと思う。
この点、日本の司教団は福音宣教の立場から世間一般から見れば政治的発言もしているし、フランシスコ教皇は、勇気と寛大な心で出かけて行け!と我々を鼓舞してくれている。
まあ、ベネディクト16世は枢機卿時代に言論の鉄砲玉でなく本物の鉄砲玉まで所持した解放の神学の一部の人々を前に、こりゃいかんとストップをかけた側面もある。
ただ、私は、あくまで言論・出版その他、表現の自由は守り、どんな言論にも言論で反撃するのが大原則だと思う。
しかし、生活空間での議論や世間話自体が敬遠される昨今のネット社会化には閉口している。
舌足らずだったかも。
ベネディクト16世も枢機卿時代に解放の神学の一部過激くんが大変だったから抑圧的にもなったろう。
何よりも生きた経験を必要とします。
分かち合いで引用されてるベネディクト16世の『使徒 教会の起源』。
ぁ! あのカラヴァッジョの『マタイの召命』が表紙の文庫か!?
ちょっと久しぶりに2階の文庫本の本棚で発見。やっぱりそうだった。
記憶にばかりたよらず、ものぐさやめて、と言うか昨年は孤立無援の戦いの中にあり本読む余裕がなかった。
『使徒』だけでなく『神は愛』、教皇フランシスコの『福音の喜び』『愛の喜び』、カトリック中央協議会の『毎日の読書』、そしてレオ13世の回勅『レールム・ノヴァールム』が引用されている有斐閣新書の『基本的人権の歴史』を1階に持ってきた。
付箋の箇所だけでもパラパラ見れば、心整い、落ち着いてくる。
神と教会に感謝!