使徒聖ペトロ (祭日) (1世紀初め~六七)
(聖ペトロと聖パウロの両方を読めない時は、隔年に読まれるよう勧めます)
ヨハネの福音書によれば、キリストの最初の弟子は、それまで洗者聖ヨハネの弟子であったヨハネとアンドレアでした。アンドレアはキリストの弟子になった翌日、朝早く自分の兄弟シモンに出会い、「メシア(救い主)に会いました」と言って、イエズスのところに連れて行きました。
イエズスは彼をじっと見て、「お前の名はヨナの子シモン(ヘブライ語でシモン・バル・ヨナ)であるが、これからはケファス(巌)と呼ぶことにする」と言われました。巌はギリシャ語ではペトロスというところから、日本語のペトロという言い方が出てきたようです。
シモン・ペトロは、十二人の弟子の中でもっとも目立った人物だったようです。彼は一二〇回も福音書にその名が挙げられていますが、次に多いヨハネでも十七回だけというのを見てもよくわかります。ペトロの性格は福音書にはっきりと示されています。広く暖かい心の持ち主で、熱血漢であると同時に衝動的だったと思われます。ある時彼は、身近なところで起きた大きな奇跡、すなわち驚くほど多くの魚が網にかかるのを見た時、キリストに向かって「私から離れてください。私は罪人です」と叫びました。しかし、他の弟子たちがキリストから離れていった時には、逆に「主よ、あなたから離れてどこに行きましょうか」と叫びました。またガリラヤ湖が嵐の時に、水の上を歩いておられるキリストを見て、「主よ、ほんとうにあなたでしたら『水の上を歩いてこい』と私に命じてください」と言いましたが、すぐ風の強さを恐れてキリストへの信頼を失い、沈んでしまいました。(マタ14:28以下)。最後の晩さんの時には、キリストに足を洗ってもらうのを拒みました。が、キリストに戒められて、今度は「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と頼みました。同じ時に「たとえすべての弟子が逃げ去っても、また自分の命を失っても、あなたを裏切ることはありません」と叫びながら、そのすぐ後、カイファ家の中庭では、弱い下女の声にさえおしけづいて、一度ならず三度までもキリストを否認したのでした。しかしキリストは、暖かい心と人間の弱さを合わせ持ったペトロを、教会の頭となさいました。「あなたは巌である。この巌の上に私の教会を建てよう」と言われたことが聖書に記されています(マタ16:18)。これは、家を支えるものがしっかりした巌であるように、団体である教会を支えるものは最高の権威者であるという意味のキリストのたとえでした。そしてその権威者は、強い巌となった弱いシモン・ペトロでした。次のキリストのことばもまた、同じ意味です。町や城の鍵を持つ者は、その町や城の頭です。同じように、ペトロに天の国の鍵が与えられました。ペトロがつなぐこと、また解くことは、神が禁じること、また許すことであり、それは地上での効力だけではなく、天でも効力を持つという意味でした。ペトロの命令は神の下される命令と同じであることを示しているのです。
ペトロが人間としての弱さに打ち勝つために、キリストは、最後の晩さんの時に、彼のための特別の祈りをなさいました。ペトロの信仰がなくならないように、ペトロが他の弟子たちの信仰を強めることができるように(ルカ22:32)と。そしてキリストはご復活の日曜日、十二人の弟子の眼前にあらわれるまえに、ペトロ一人の前におあらわれになりました。そのキリストの祈りによって、また聖霊の力によって、聖霊降臨の日から、ペトロは使徒たちの頭として立ったのでした。その後、教会が初めて迫害された時、彼は逮捕され、死刑の判決を受けました。しかしその危険からも救われました(使徒12章)。キリスト教初期の教書の著者たちによれば、数年後彼はローマに行き、そこを自分の司教座と定めました。後日、ネロ皇帝の迫害を受け、そこで殉教しました。ペトロはローマ市民ではなかったので十字架刑でしたが、自分にはイエズスと同じ十字架刑を受ける資格はないと、逆さ十字架の刑を願ったと伝えられています。
四世紀になって、教会は自由を得ました。その頃、ローマでの大埋め立て工事の折に、皇帝コンスタンチヌスは、九〇人ほどが埋葬されていた墓地をならして、その上に聖ペトロにささげる教会を建てました。十六世紀には、時代を経て古くなったその建物の代わりとして、バチカンの聖ペトロ大聖堂が建立されています。
自分の弱さに、暖かい心をもって打ち勝ったあの素直な漁師の墓に、毎日全世界から大勢の巡礼者が祈りのために訪れます。私たちもここから、聖ペトロが頭だったその教会のために、またペトロの後継者でありローマの司教である教皇のために祈りましょう。
使徒聖パウロ (祭日)(一世紀初め~六七)
後にパウロと呼ばれる使徒のほんとうの名はサウロであり、ベンジャミン族のイスラエル人でした。生まれたところはイスラエルの国ではなく、家族が住んでいた現在のトルコ南東のタルソという町でした。
パウロは、キリストの死の数年後エルサレムへ行き、キリスト教会のすさまじいまでの迫害者となりました。ダマスコのキリスト教信者を逮捕しようと思い、そこに向かう途中、目のくらむような光を見ると同時に「なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞き、即座に熱心なキリスト教信者になりました(使徒7章、9章)。その時から死ぬまで、地中海沿岸の諸国を巡ってキリスト教を広め、多くの教会を建てました。彼は何回も何回も鞭打たれ、石を投げられ、牢に入れられ、何度も船が難破して……というように苦労に苦労を重ね、さらに飢えや寒さに耐えて、キリスト教を宣教したのでした。自分の声が届かないところには、信仰と愛の火を放つような手紙を書き、町の教会や自分の弟子を教えたり、叱ったり、励ましたりしました。キリスト教が、小数民族であったイスラエル人の宗教から、わずか二五〇年ぐらいの間にローマ帝国全土の宗教になった裏には、パウロの並々ならぬ活動があったのです。
彼は、ギリシャ・ローマ世界の主な町、アテネ、コリント、ローマに福音の種をまきました。六七年頃、ローマで再び逮捕された時、親しい人たちはみな遠いところにいて、多くの友だちにも捨てられたため、キリストのように、死刑の前に見捨てられたという孤独の悲しみを
味わいましたが、それでも「主は、私を救ってくださる」(2テモ4:18)という信頼を持ち続けていたのでした。その救いは、キリストがいただいた救いと同様に、死からではなく人間の弱さからのものでした。パウロはキリストのあかしをしながら、ローマ市民として首をはねられ、その寸前に、本人が書いたように「勝利の冠」を受けました。同じ目に、ペトロがローマの別の場所で殉教したと記されています。
パウロほど、キリスト教の歴史に影響を及ぼした人はいないといえます。なぜなら、パウロは確かに才能を持った人間でしたし、キリスト教第一の思想家であり、神学者でした。彼は全人類の歴史と神の救いの計画を、大規模な構想によって、自分の書く手紙にまとめました。「みんな罪を犯しましたし、神の栄光(恵み)を奪われていますが、キリスト・イエズスのあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で救われます」と。
また、パウロは豊かな心の持ち主でした。自分の友だちや信者を熱烈に愛して、彼らの苦しみをともに苦しみ、出会いを喜んだり、懐かしさのために涙を流しながら手紙を書いたりしました(2コリ2:4)。だから、信者たちはパウロを父として愛し、彼の死の予告を聞かされた時、彼のために涙を流したのでした(使徒28:37)。
それにしても、聖パウロの魅力とその布教のみごとな実は、単に人間的な才能によるものではありませんでした。彼自身が言うように、彼がそのようになったのは神の恵みの結果でした(1コリ15:10)。その恵みとは、私は神の子であるキリストに愛され、キリストは私のために死なれた(ガラ2:20)という自覚であったといえましょう。 私たちも同じように、その自覚をいただくことができるよう祈りましょう。