集会祈願
🌸 第一朗読 (ヘブライ5:7-9)
ヘブライ人への手紙
7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな〔られたのです。〕
🌸 答唱詩編 詩編31 典145 ①③
アレルヤ唱 典273
🌸 福音朗読 (ヨハネ19.25-27)
ヨハネによる福音
25〔そのとき、〕イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
昔、広島の学校で働いていたとき、筋萎縮症の子どもたちのための病院を訪問した。子どもたちの相手をしたり、奉仕作業をしたりしたが、その中に一人、中年の障害をもった方がおられ、彼に付き添う母親の静けさと笑みに満ちた表情をいつまでも忘れることができない。たとえ、それがわが子であっても、障害をもってしまった子、しかも、治癒する見込みもない子と、何十年も共に生きる母親の姿に頭が下がった。
今日は、わが子イエスの受けた苦しみ、そして、すべての人の悲しみを自らのものとされる「悲しみの聖母」の記念日です。
イエスの母マリアは、だれよりも大きな恵みを受けて、救い主をこの世に誕生させる使命を受けられたが、同時に、キリストの生涯に現われた様々な反発、誤解、非難、排斥、そして、生涯の終わりに訪れた受難を、自分のことのように受け止められた方です。『イエスに出会った女性たち』の著者、英神父は、その本の中で、「死刑囚の母・聖マリア」という1章を設け、十字架のもとにたたずむ聖母について思いを巡らしておられる。その中で、強調されるのは、「立っていた」という言葉。”Stabat Mater”という聖歌があるが、まさに、聖母は、その時、十字架のもとで毅然として立っておられたのです。「立つ」ということは、単に無造作にそこにいる、ということではなく、自分の意志で、しっかりと、たじろがずに、厳しい現実に対峙し、受け止めるということです。
悲しみの聖母の記念日に、十字架を担われたキリストの最も近くにおられ、世のすべての人の苦しみ、痛み、罪を、キリストと共に負われた年老いた聖母に思いを向けよう。(S.T.)
障害をもつことは、罪か。否!
罪人とは罪を犯した人という意味と世間からそのレッテルを貼られた人という意味があると思う。
outcastのためにキリストは来た。
outcastと共にoutcastになればキリストに出会える。
自分自身の、ありったけの罪を私が告白したあと、
人の罪をゆるすだけではなく忘れること!
と師は言った。
認知症とは人々の罪を忘れて、へりくだって今を生きる方便だろう。
「すべての人の悲しみを自らのものとされる悲しみの聖母」
「立つ」ということ
自分自身の模範と課題が与えられた。