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教皇の意向:子を失った親 (11月)

復活の主日・日中のミサ(3/31)

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見て、信じた。

ヨハネ20:8
集会祈願

全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠のいのちの門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかる私たちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (使徒言行録10.34a、37-43)

 34そこで、ペトロは口を開きこう言った。37あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

🌸 答唱詩編 詩編118 典87①②③

:きょうこそ神が造られた日、
  喜び歌え、この日をともに。

恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
イスラエルよ、叫べ。
神の慈しみは絶えることがない。 【答】

神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
私は死なず、私は生きる、
神のわざを告げるために。 【答】

家造りの捨てた石が
隅の親石となった。
これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。 【答】

🌸 第二朗読 (コロサイ3.1-4)

 1〔皆さん、〕あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

または一コリント5.6b-8
 6〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

アレルヤ唱 典266(主の復活)

アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの過越、キリストはほふられた。主のうちにともに喜び楽しもう。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ20.1-9)

ヨハネによる福音
 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 

奉納祈願

いつくしみ深い神よ、復活祭の喜びに満たされて、この供えものをささげます。御子の救いのわざによって教会が新たにされ、つよめられますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

恵み豊かな神よ、あなたの教会をいつもお守りください。教会が、御子キリストの死と復活の神秘によって新たにされ、復活の栄光に達することができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「ご復活祭おめでとうございます」。毎年、復活祭には、当然のように、こうした挨拶をかわします。しかし、教会の典礼で祝日を祝うのは、何か頑張ってよい結果が出た、入賞したといったときの「おめでとう」とは根本的に違うことを、意識しなければなりません。人間の努力ではなく、もっぱら、神が与えてくださった恵みに感謝し、神をほめたたえる意味だということを銘記しましょう。聖週間の最後の3日間、わたしたちはイエスの地上での生活の最後の時、弟子たちとの最後の晩餐、捕縛、裁き、十字架の道行きと死、そして、葬りを、典礼を通して静かな雰囲気の中で記念し、黙想しました。

 イエスの生涯、特に、公生活の月日はわずか3年ほどの短いものでした。しかし、その中身は実に濃く、豊かなものでした。人々に教え、病気を癒し、不思議な業を行う等、その一つ一つは、人々の意表をつくもの、彼らの考え、習慣、期待と違うことばかりでした。庶民の多くはイエスを歓迎し、喜んでイエスの教えに耳を傾けましたが、宗教指導者は戸惑い、憤慨し、イエスを危険視し、排除しようとしました。イエスは、そうした反応を避けるどころか、かえって、彼らと議論し、彼らの非を悟らせようとしました。しかし、彼らは、ますます頑なになり、イエスを亡き者にしようとたくらみました。そして、彼らはイエスを捕らえ、裁きにかけ、十字架刑に処したのです。イスラエルの指導者たちは、それで、すべては終わった、イエスの問題は解決した、邪魔物は消えたと思ったでしょう。しかし、実は、終わったと思ったことがすべての始まりであったことを彼らは予想できなかったのです。

 今読まれたヨハネの福音は、弟子たちがイエスを葬った墓を訪れたときの模様を伝えています。まず、マグダラのマリアが、朝まだ暗いうちに、だれよりも早く墓に赴き、当時の葬りのしきたりに従って、遺体に香油を塗ろうとしました。しかし、お聞きになったように、あの大きく重い墓の石は取りのけてあり、遺体はどこにも見当たりませんでした。状況を説明する天使の姿もなく、メッセージもありません。すぐに弟子たちのところに知らせに行きます。ペトロとイエスが愛された弟子は、墓に急ぎ、ペトロは墓に入りますが、彼女が言ったとおり、イエスの遺体を包んでいた亜麻布があるだけで、遺体はありません。しかし、ペトロに続いて墓に入ったもう「一人の弟子」はすべてを悟り、「見て信じた」、と記されています。十字架上ですべてを父なる神に返されたイエスは、もはや、死者の世界ではなく、新しい世界、再び死を味わうことのない神のいのちの世界へと移られたことを悟ったのです。

 復活は、わたしたちの信仰の核心をなす神秘です。しかし、それを正しく理解することは決してたやすいことではありません。死んだイエスが生き返ったことではありません。止まった心臓が再び動き出したことでもありません。「イエスが生きておられる」ということは、イエスのあのご生涯、人々が予想もせず、指導者たちが許すことができないと思った、あのイエスの教え、行動、態度、そして、あのいたましい苦しみと十字架上の死が、すべての終わりではなく、むしろ尽きることのない永遠の命、神の命への道であるということです。そして、それは、すべて神のみ心によるもの、神の望み・計画だったことの証しであり、神のYESだということです。「画竜点睛」という言葉がありますが、イエスの生涯というキャンパスの上に最後の一点を描かれたのは神ご自身だということです。復活を信じて生きるということは、イエスのあのような生き方、教えの中に、真のいのちへの道があることを肝に銘じて生きることです。

 人間は生きている限り、様々な苦しみ、悩み、痛みを経験し、自らの犯した罪に悩むことがあります。思い通りにならないことも人生の常です。そこで、落ち込んだり、自暴自棄になりかけたりすることもあるでしょう。復活は、そのような無力の経験こそ意味があり、いのちへの道である。神が何か語ろうとしておられる、その恵みの時だということです。このことをしっかり心に刻みましょう。十字架を仰ぐこと、それは、あの悲惨そのものに見えるものを、神が自らの愛を表わすものに変えてくださったということです。

 悲惨のどん底に置かれている人々に生きる希望が与えられ、世界の歩みが破滅に向かうかのように思える現実の中にあっても、復活された主が、平和への道を開き、一人でも多くの人に希望と喜びを与えてくださるよう恵みを祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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