集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ40:1-11)
イザヤの預言
1慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
2エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
3呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
6呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
7草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
8草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神
10見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
11主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
🌸 答唱詩編 詩編96 典148 ①④
アレルヤ唱 典256 ⑫
🌸 福音朗読 (マタイ18:12-14)
マタイによる福音
12〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
クラシック音楽がお好きな方なら、必ずお聞きになったことのある『メサイア』の第一曲の歌詞、「慰めよ、わたしの民を慰めよ」で始まるイザヤの40章が読まれた。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(40.11)を受けて、福音ではマタイ18章が読まれた。主イエスは言われる、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」と。
ルカにも同様な話があるが、そこでは主人が羊を一匹見失ったことになっている。焦点を、見失った羊の主人に置くか、迷った羊自体に置くかの違いだが、どちらにも、多くの群れの中の一匹に向けられる主人の思いが強調されている。自分から迷い出たなら、自己責任で、放置してよさそうなものだが、神はそうされない。神の前に、「自己責任」という言葉は意味を持たない。神の前に、すべての人は、迷い、逡巡し、後悔し、悩む存在である。その人間に、自ら近づき、寄り添い、慰め、諫め、力づけるのが神である。
山歩きをして、道に迷い、引き返すこともできずに、辛い思いをした人なら、よくわかることだが、人生はそのようなもの。自分だけの力ではどうにもならない状況の中でも、光となり、道を照らし、救い出してくれる頼もしい存在がいる。それを信じ、また、その信仰の喜びを分かち合うこと、これが待降節を過ごす心ではないだろうか。(S.T.)