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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第十五火曜日(7/18)

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数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかった

マタイ11:20
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト2.1-15a)

 1〔そのころ、〕レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 3しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
 4その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 5そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。 6開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。 7そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
 8「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。 9王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、 10その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
 11モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。 12モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。 13翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、 14「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った。 15ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりついた。

🌸 答唱詩編 詩編69 典115 ①③

アレルヤ唱 典261 ③

🌸 福音朗読 (マタイ11.20-24)

マタイによる福音

 20それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。 21「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。 22しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。 23また、カファルナウム、お前は、
 天にまで上げられるとでも思っているのか。
 陰府にまで落とされるのだ。
 お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 コラジン、ベトサイダ、カファルナウム等、そこに上げられた町は、いずれも、イエスが宣教の拠点としたり、立ち寄られた使徒たちの出身の町。都のエルサレムから遠く離れた、素朴な漁師や農夫、商人たちが暮らすガリラヤ湖畔の町。
 それに対して、シドンやティルスは地中海沿岸の港町。昔から港町として栄えていたが、ユダヤ人からすれば、神を知らない、異邦人の町。その町の人々の方が、イエスが行う不思議な業に開かれた心を持っていたということは、何を意味するのだろうか。
 神は、救いの計画をもち、イスラエルの民、そして、パレスティナの地は、特別な場所と考えられていたが、神の救いを受け入れるか否かは、地域や、民族に限定されるのではなく、まさに、人間一人一人の自由にかかっている。
 昨日、ベトナム人のためのベトナム語のミサがあり、ミサ後、ささやかなパーティーが開かれた。コロナも少し収まり、久しぶりの再会ということもあろうが、その盛り上がりには、感動させるものがあった。そもそも、あれだけの若者が今時、教会に集まるということは何を意味するか。祖国ベトナムは、日本人の目からすれば、貧しく、生活も苦しく、しかも社会主義国家ということで、キリスト者は様々なハンディを負っている。そんな国の若者が驚くほどの深い信仰とエネルギーに溢れている。
 かつて、日本にキリスト教が伝えられ、短期間のうちにキリシタンが増加し、キリスト教が弾圧されたとき、多くの人々が、勇んで信仰のために命をささげたことは、ヨーロッパの教会にとって、驚き以外の何物でもなかった。こうした現実をイエスはどう見ておられるだろうか。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 分かち合いにある通り「神の救いを受け入れるか否かは、地域や民族に限定されるのではなく、まさに人間一人一人の自由にかかっている。」
    つい、別の欄で、日本人はだめだ云々というような書き方をしたのは私の誤りであり、殉職・殉教された日本の多くの先輩たちと彼らを導いた神への冒瀆であり、ここに神と兄弟姉妹に謹んでお詫びしゆるしを乞いたい。

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