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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第六水曜日(2/15)

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イエスがもう一度両手をその目に当てられると

マルコ8:25
集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記8:6-13、20-22)

創世記
 6四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、 7烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。 8ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。 9しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。 10更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。 11鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。 12彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
 13ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。
 20ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。 21主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
22地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」

🌸 答唱詩編 詩編105 典94 ①③

アレルヤ唱 典272 22A

🌸 福音朗読 (マルコ8.22-26)

マルコによる福音
 22〔その時、イエスと弟子たちは〕ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 23イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 24すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 25そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 26イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 一人の盲人が癒されて、見えるようになった話。目の見えない人が見えるようになる話はほかにもあり、メシアの時代に、そのような癒しの業が行われることは預言者の言葉によく表れる。しかし、この盲人がどのようにしてイエスによって見えるようにしていただいたかは、マルコだけが記している。
 マルコは、イエスがエルサレムに入る直前、生涯の最後の奇跡として、もう一人の盲人の癒しについて記しているが、マルコは、その盲人の名前(バルティマイ)まで紹介している。それは、単なる記録ではなく、イエスがなさった不思議なわざが、まさに、具体的な、病める一人一人の人間に寄り添い、癒されたことを意味するのではないか。
 かつてお世話になった、大学の学長まで務められたイタリア人神父が晩年、黄斑変性症を患い、著しい視力の減退に見舞われた。その時、彼は、「こんな状態になって、わたしは死んだ方がよい」と嘆きの言葉を発された。あの偉大な先輩であり師である方が、そのようなことを口走るとは思いもよらなかったが、今、彼の年齢に近づき、視力の衰えを日々感じるようになると、その時の師の苦しみがわかるような気がする。
 イエスは、そのような苦しみを担って生きる人に注がれる神の愛を、自らの業を通して示された。しかし、それは、イエスが、肉体的な視力の回復だけでなく、感覚で捉えることのできない神の世界を、人々が見る目を開かれることのしるしだったのではないか、とあらためて感じさせられる。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. 2005年4月2日土曜日夕方、主のいつくしみのミサで司祭が、

    見る、見抜く、悟る、信じる。
    と言った。

    返信
  2. 分かち合いに、狭き門より入れ、という言葉を思い出した。

    大門ではなく狭き門。
    大船ではなく箱舟。

    そしてペトロは主イエスに従い小舟から湖に出る。

    偉大な先輩であり師の思いもよらない言葉。

    神は、
    偉大な先輩である師を、
    我々に与え、
    我々から奪う。

    司祭・修道者が人間でありつつも我々信徒に示す生き方。

    感覚で捉えることのできない神の世界へ。

    死と復活。

    実家のあるこの「村」を高校1年のとき一度出たが、また戻って来てしまった。
    親兄弟を、自分のなかで、はっきり捉えるため。
    肉親とは何かをはっきりさせるため、地上の故郷に帰った。家族親戚故郷を見抜く。

    霊親である神。
    霊親であり新しい肉親であるイエス・キリストという決定的存在。

    まず道であってくださる。目の前の具体的方法。ありがたい。

    そして真理を見せてくださる。
    我々は父を見る。

    その上、死んでも命を与えてくださる。

    祈る花
    散っても枯れても
    祈ってる

    神に感謝。

    返信

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